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Cafetalk Tutor's Column

Tutor Rie_Takayama 's Column

世界はいつも優しかった☆

Dec 7, 2019

 

皆さまこんにちは!
良い週末をお過ごしでしょうか?

今日は少し回顧記事を。

私は大学を卒業するまで海外に出たことがなく、初めて海外へ旅行したのが卒業旅行で訪れたアメリカのカリフォルニアです。

サンフランシスコから車で2時間くらい走ったところにある、の~んびりした小さな田舎町に住むご家庭に約1か月間ホームステイをしたのが、私の人生初の「世界とかかわる」入口体験でした。

振り返ると本当にラッキーだった!と感謝の気持ちでいっぱいになるのですが、この時の滞在先のホストファミリーが本当に素晴らしいご家庭で、私は彼らのお蔭で世界と積極的に関わることになったと思っていますちなみに、この旅行企画は学生の卒業旅行用に当時日本旅行が主催していたもので、今振り返ってもホストファミリーは厳選された良い家庭でしたし、内容も充実して大変優れたものでした)

パパは町で尊敬されるドクターであり、同時に教会のpreacherの役割を勤められている立派な方で、当時人気だった俳優のマイケル・ダグラスに似ているハンサムな方でした。

ママは元看護師で、メキシコ系移民家庭をルーツにもつ、でも生まれも性格もアメリカン!な可愛らしい当時30代半ばくらいの女性。10歳のお兄ちゃんを筆頭に、真ん中がお姉ちゃん、そして4歳のチビちゃんという3人のお子さんがいるご家庭でした。

アプリコットや野菜を栽培している畑とお庭があって、離れにはおじいちゃんとおばあちゃんのお宅と犬と猫、ニワトリがいる大きくて自然いっぱいのお宅。家にはしょっちゅういろいろな人が訪れ、ときにはママの手料理でパーティが催されることも。

当時の私の英語力は本当に乏しいものでしたが、彼らとの日々が私の人生を変え、帰国後「本気で」英語を勉強することを決意させたのでした。

We are your American family"というメッセージが、彼らの写真と一緒に印刷されたTシャツを帰国時にプレゼントされ、本当の家族のように愛情を注いでもらった日々。帰国後は文通を通して(当時インターネットはありませんでした)彼らに自分のことを伝える日々が始まったのです。拙い英語で、伝えきれない感謝の気持ち、自分に起こった変化について綴っては、日本のギフトと一緒に送ることを何年も続けました。

その後私は、約3年後にワーキングホリデービザを取得してオーストラリアへ渡ります。
それまで、卒業してすぐに就職した日系の、英語はまったく使わない会社で働きながら、終業後にカフェで英語を勉強する日々を過ごしていたので、自分の英語力を試す冒険の日々の始まりでした。

オーストラリアで最初に暮らしたのはウーロンゴンという、美しいビーチとウーロンゴン大学の広大なキャンパスのある静かできれいな街でした。大学付属の語学学校に2か月間だけ通ったのですが、大学生たちとも触れ合えるキャンパスライフはそれは楽しかったです☆英語を海外の学校で勉強したのは後にも先にもこのときのみ。あとはずーっと、今度は仕事で使えるようになるまで勉強し続ける毎日が帰国後の私を待っていたのですが。

シドニーから電車で1.5時間くらいのところだったので、週末はほぼ毎週シドニーへ。ナイトクラブをはしごして電車がなくなって帰れなくなり、友達とオペラハウスで星を見ながら一夜を過ごしたことも(笑)当時ウーロンゴンで住んでいたところは大学が紹介してくれた学生寮だったのですが、この寮のオーナーには素行が悪い、と怒られたこともありましたっけ・・・シドニーに遊びに行って朝帰りしていただけで、何も悪いことはしていないんですけどね!

語学学校で2か月のコースを終えたあとは、予定してた通り、ケアンズというグレートバリアリーフ(サンゴ礁で有名な海洋地帯)が有名な街へ電車で移動します。

社会人として働いていたときに、1度だけケアンズを訪れたことがあり、その自然のあまりの美しさにすっかり虜になってしまったため、オーストラリアに行ったらケアンズで過ごすことを決めていました。

ケアンズという街は、その大自然の豊かさからダイバーやサーファーなどの自然派旅行者が集う街として有名で、この地へ来たら誰もが一度は参加する海のアクティビティへ連れ出す船が、毎日港から発着している場所でもあります。当時日本人観光客も多かったので、私たちにとってケアンズは格好のアルバイト場所でもありました。

アルバイトの種類は、船に乗ってクルーとして働くものや、その他のガイド系(ラフティング、乗馬、スキューバダイビング、スカイダイビングなどなど)関連やお土産屋さん、レストラン、そして一番仕事の数として多かったのが、日本からのお客さんを空港でお迎えしてホテルに届ける送迎ガイド。

私は英語を使いたかったので、現地のショッピングモールにあるベネトンショップの店員の仕事と、街で有名な高級広東料理レストランでのウエイトレス、それに加えてお土産屋さんでも働いてバイトをしました。当時の日本人ワーホリ滞在者にとってバイトをする目的はただ一つ。

オーストラリアの国内を旅することです!

語学学校に通いながら滞在していたいわゆる「留学生」たちとは違い、ワーホリ仲間はもっとアクティブでサバイバル力がある感じでした(笑)学校にお金を払って滞在許可と英語学習の場を自動的に与えられる留学生とは違い、ワーホリ仲間たちは場合によっては所持金は微々たるもので渡豪し、アルバイトをひたすらして、お金が溜まったら移動したり、バックパッカーとして安宿を転々としながら旅行したりしていました。

私も留学費用がなかったケースなので、このワーホリでの時間でなんとか英語をモノにしたかったし、海外で生きていく自活力を身に付けたかった。

そして、ケアンズでお金を貯めたあと、皆と同じように、国内のあらゆるルートを網羅している長距離バスGreyhound(通称グレハン)のパスを購入し、気ままに気の向いたところで降りて安宿に泊まる旅を約3か月くらい体験したのでした。

不思議なのですが、このときの記憶では、どんなに仲良くなった日本人のワーホリ仲間でも、みな旅に出る時は「ひとり」で出発していたこと。お互いにバイトしているときなどは仲良くなって一緒に過ごしたり、旅の計画を話し合ったりはしますが、なぜかお互い暗黙の了解でもあるかのように、出発は別々のタイミングで。残る者はみんなでグレハンの出発地まで見送りに行って、旅の健闘を祈ったものです。もちろん、この旅の実行に男も女も関係ありません!女子たちもかな~り、たくましかったです(笑)

そして、一度旅発ったら、お互いもう会えないかも、というのも前提。だったので、みんな「連絡先ノート」にメッセージを書きあって、「日本で会えたら・・・・」という希望ももちろん抱いていました。でも、その後会えなかったケースのほうがほとんどかも。

いずれにしてもこのときの仲間との絆が、その後の旅のいちばんの励みになったのは言うまでもありません。

バックパッカーズと言われる安宿やYMCAやユースホステルのドミトリー(グループ部屋)を転々としながら旅したのは私の人生ではこの時が初めてで、またそれ以降はしていないのでできれば最後にしたい体験ですが(笑、それくらい安宿旅はある意味根性が必要です!)、若かった当時にしかできない素晴らしい出会いと忘れられない思い出をたくさん作った時間となりました。

この旅の詳細については、記憶をたどりながら書けそうだったらまた別の記事で試みたいと思います!

私にとって、20代で体験したアメリカでのホームステイとオーストラリアでのワーキングホリデイ滞在の日々は、人生を根底から変える大きな意味をもつものになったことをここで書いておきたいと思います。

このときのこの体験があったから、私はその後も躊躇することなく海外へ向かい、様々な人たちとの出会いと時間の共有を楽しみ続けています。

世界はいつだって優しい。

これは、20代のこれらの体験が私の中に根付かせてくれた世界観です。


もちろん、海外でのハプニングは数えきれないくらい経験していますが(笑)、そのたびに人の優しさ、温かさをもらって、感謝しきれないくらいの思いでいっぱいになるのです。

写真は、オーストラリアでのバックパッカー時代の自分と、宿で知り合ったニュージーランド人の女の子とのツーショットです(若い!)





This column was published by the author in their personal capacity.
The opinions expressed in this column are the author's own and do not reflect the view of Cafetalk.

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