前回からの続きです。
奇跡の人
どのようにして大学に入学し、博士課程の奨学金まで得ることができたのか・・・それについては、Pは語りませんでした。
しかし誰もが口を揃えて、ドイツの教育制度ではまず不可能で、彼は奇跡でしかない、と話していました。ドイツでは、人々の進路は10歳ではっきり分かれてしまう、と言われています。
人よりかなり遅いスタートながら、村を案内してくれた時、彼はすでに博士号を取得して、研究者としての道を順調に歩み始めていました。
研究は評価されて受賞もあり、彼の指導教官は、博士号取得後も彼を助手(ポスドク)として残しました。研究室は事実上、彼が仕切るようになっていました。
犠牲
しかし彼はこのために、多くの犠牲を払っていました。
次の機会に会った時、彼の結婚生活はすでに破綻し、妻と離婚協議中でした。
私に対してよそよそしかった彼女の態度に、Pは済まなそうに、彼女は大学の人々に敵意を抱いている・・・と語りました。
彼女は職人のPと幸せな結婚をしたと思っていたのです。気の置けない職人仲間の人々と、楽しい生活を送れるはずでした。
大学の人々と接するようになり、自分たちの生活圏も交友関係も変わって行きます。
ドイツのアカデミズムは別世界です。非常に権威主義的で、話し方や服装にも気を遣い、ライフスタイルまで変えなければなりません。
男性たちは物理学の会話に明け暮れる。自分は失礼が無いように、丁重で気品のある振る舞いに心がけ、場に合った会話でゲストの伴侶を楽しませる・・・
興味も価値観も異なり、人生の背景が全く異なる人たちと、そんな交流はしたくない。出来るはずもない。
自分の生活が破壊され、夫が別人になって行くのに耐えられなくなった・・・故郷の村に戻り、自分に合った生活を取り戻したかった・・・
そして・・・
独身となって子供達とも別れ、ポスドクの任期を何回か更新した後、Pは一定期間、企業の研究所に移りました。
そしてその後、 Habilitation (ドイツに特有の上級資格、教授職に応募する際に必要)を取得し、私より2年ほど早く教授職を得ました。
東西ドイツが統一され、旧東ドイツの大学が整備された際に、多くの研究者が求められて西側から移った時のことです。
当時、旧東ドイツでは、そのような建物は多かったそうですが、大変に大きな家で、ある雪の日に自分の庭を散歩して道に迷い、凍死しそうになった・・・と笑っていました。
(第3回へ続く)
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