こんにちは。
「人間形成の場」エンパワlaboの有岐です。
2025年も、いよいよ終盤に差しかかってきました。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
あれほど照りつけていた夏の陽射しも過ぎて、
冷たい空気を感じるたびに、
ひたひたと静かに何かがゆっくりと変化しているのを感じます。
時代には、「治まる時代(治世)」と「乱れる時代(乱世)」があって、
私たちは長い歴史の中で、それを何度も繰り返してきました。
『論語』には、治世と乱世では「生きる方法を変えるべきだ」とあります。
水の流れが変われば、乗る船も変えねばならない──ということですね。
けれど今の時代は、治世でも乱世でもない。
まるで滝つぼへと落ちる手前のような、
行き場のない不安と緊張の中に世界中がいるような気がします。
「このまま仕事を失ってしまうのではないか」
「自分は切り捨てられてしまうのではないか」
こうした言葉にならない恐れや不安が、静かに胸の奥をひたひたと満たしていく──
そんな感覚を、誰もが抱えているのではないでしょうか。
もしかすると、私たちは今、
今世紀最大の“逆境”の入り口に立っているのかもしれません。
禅の言葉に「無事是貴人(ぶじこれきじん)」というものがあります。
“無事”とは、無造作でありのまま、
平常の中に安らいでいるということ。
自分が本来「仏」であると気づいたら、
もう外に何かを求める必要はないよね、という言葉です。
もしかしたら、私たちは「光を持ちながら光を探す旅人✨」なのかもしれませんね??
今は「自分の力ではどうにもならないこと」が次々と起こる時代です
社会も仕事も、人間関係も──昨日までの常識が「簡単に」崩れていく。
「なぜ自分はこんな状況に?」
「なぜ社会がこんな状況に…」
そんな時、私たちは「問題が起こったら、解決には“行動”が大切だ」って、教えられてきたんです。
現実を良くしたければ「とにかく行動せよ」と言われます。
そう。とにかく、現実を良いように変えたいなら、
「する」ということが、最も大切だと教えられているんです。
だから、私たちはいつも目の前にある問題を何とかしたくて
『誰かを責めたり、無理に結果を掴もうとして、結果自分を追い詰める』──
そうやって、現実を「戦う相手」として認識し、反応するようプログラムされているのです。
これ、まさに言うなら、《「する」の麻薬》に取り憑かれている状態です。
「何かしなければ」という衝動を止められず、休めず、心は常に焦っています。
逆境は本当は「戦う相手」と違うんですよ。
逆境だからこそ、私たちはこの刷り込み──「すること」という、めちゃめちゃ怖い洗脳──から解放されると私は思うんです。
大切なんは、
起こることをどう“変える”かではなく、
起こることをどう“観る”か なんです。
今、まさに逆境の最中にあって、「どうすればいい?」「次に何をすれば?」と苦しんでいるあなた。少しだけ私の話を聞く時間を頂ければ嬉しいです。
逆境のこんな時代にどうしたらいいのでしょうか?
結論から言うと、
「起こること」と「すること」
この「違い」を理解して、実際に日常で実践して目を開く(開眼)ことです。
この逆境やからこそ覚醒する、大きなタイミングが来てると感じてます。
「チェックリスト」と「評価」の中で息苦しくなっている私たち
小さい時から、「何を食べたい?」「どこに行きたい?」と問われたり、
「自分で決めなさい。」「責任を持って行動しなさい。」そう言われてきました。
だから私たちは無意識に、「こうする」という答えを、
「自分が選んだ」と信じるようになりました。
自然と「自分が選択してしている」という感覚が身についてきたんです。
その「する」の世界では、出来事は「私が選択し、私が決めたこと」。
つまり自分が「した」という前提で出来事を見ています。
だから、成功すれば誇りを持ち、
失敗したり悪い事が起きれば、自分を責めるんです。
「自分がしたことの結果は、いいも悪いも全て自分にある」こう思う訳です。
今これを聞いて、「当たり前じゃないのか?」と思うでしょう?
でも、出来事ってそんなに私1人がしたことの結果で起こると思いますか?
運や縁、体調や天候・・・そういった「条件」が、今まであなたの成功や失敗の大きな要因だったと思いませんか?
私たちは、「成功した」「失敗した」とか、人生の全ての出来事を「すること」という枠組みで捉えてきていますよね。
なかなか人生はうまくいく事ばかりじゃない。
私が「選んだ」「決めた」──その前提のもとで生きていると、
上手くいかない責任がすべて「自分」にのしかかり、重圧に苦しむのです。
そして、その重さは後悔や罪悪感、将来への恐れとして、心を苦しくさせます。
なりたい自分があっても動けない、
将来の選択が怖い──それは当然です。
「自分が“やった”前提で物事を見ろ」と教育され、
失敗すれば自分を責めるように刷り込まれてきらからなんです。
その思考パターンでいると、
その罪悪感や責任感は、他者にも向かいます。
誰かのミスを「あなたがしたから悪い」と見なせば、批判や怒りが生まれますよね。
人も自分も、こうして「裁きの責め」に巻き込まれていくのです。
人生はコントロールできる──いや、行動することでコントロールできると信じたいですよね。
資本主義の時代には、「お金とやり方」を握りしめて進めば、上手くいく時期もあったかもしれません。
私自身、1991年のバブル崩壊やリーマンショックを経験し、
アジアの一部の国では貨幣が紙切れになったことも実際に目で見ました。
わたしは、何かを「する」ことで出来事をコントロールできるという、そんな「幻想」から目を覚ます時が来たと思うんです。
今、私たちは【今世紀最大の逆境の入り口】に立っています
2025年、計画は崩れ、予想外の出来事が次々と起きる。
そんな時、起こることをどう“変える”か――だけに意識を向けると、
成功すべき目標や理想に縛られ、常に比較と競争の中で疲弊してしまいます。
「自分がやった」という前提で物事を見ると、うまくいかないと
「行為をした者」としての責任が重くのしかかって、強い苛立ちや失望に心をかき乱されます。
その責任感で心が耐えられなくなると、人は自分を保つために「何か」で紛らわせよいとします。
アルコールや薬、承認欲求を簡単に満たしてくれるものに依存してしまうんです。
人は、頭で分かっても現実が変わっていないとどうしようもなくなるんですよね。
だれでもそんなに強い人はいません。
出来事は100%自分が「した」結果やないということ。
本当は、「出来事」は、
それらはすべて、自分の意志とは関係なく、色々な条件によって「起こっていること」なんです。
起こる事は、起こる。
前回のブログの私の言葉です。
なのに、私たちは出来事を「自分が起こしている」「自分が何とかすべき」と、ついつい錯覚してしまうんです。
だから、「自分が出来ていないからだ」「自分が十分でないからだ」と、
責任を一人で背負い込んで苦しみが生まれるんです。
例えば、朝、会社に行く準備をしているときに、寝坊してしまったとします。
最近は風邪をひいていて、飲むはずだった薬を朝に飲めなかった。
身支度の時間も足りない…そんな状況です。
もしこの瞬間も「すること」の視点で物事を見ていると、どうなるでしょうか。
「できなかったのは私のせいだ」という考えが、すぐに浮かび上がります。
朝起きたこと、薬を飲めなかったこと、身支度の遅れ…すべてが、私の責任として心にのしかかります。
そして、頭の中で「ああなる、こうなる」という物語が作られます。
『私はダメな人間だ』『もっとしっかりしなければ』――そういう重い声が、次々と心に押し寄せるのです。
この苦しみの本当の原因は、私たちが「私は行為者である」という自己イメージを、無意識のうちに絶対の真実だと信じ込んでしまうことにあります。
だから、どんな小さな失敗でも、自分を責めて苦しくなってしまうんです。
会社の業績が下がった時、業務で違う仕事に回された時、
子供が不登校になった時・・・
そんな時、この記事を思い出してみて下さい。
でも、ここに気づくと、大きな自由が生まれます。
「自分がすべての原因ではない」という視点を持つだけで、心は少しずつ軽くなるのです。
次回は、この先に待っている「本当の自由」について、もう少し詳しくお話ししていきますね。
人は「何かをすることで自分の価値を証明したい」
という強い欲に、そもそも捕らわれやすい「生き物」です。
仕事で成果を出すこととか、人に認められること、
成果や役割を積み重ねること──
それが、まるで心の安心や自分の存在価値の源泉であるかのように錯覚してしまうんですね。
どうしたらいいのかわからない。
だから「“する”の麻薬」を止める事ができない。
行動を止められない、休めない、心が常に焦っている……
そんな自分、受け入れたくない・・・そう思いますか?
そんな自分でもいいじゃないですか。
どんな自分でもいいんですよ。
その「受け入れられない自分を受け入れる」ことが
“ゆだねる”という状態なんです。
「ゆだねる」は、「何も考えずに従う」
のではなくて、現実と自分が争うのをやめること。
「自分の思い通りにしようとする力を静かに下ろす」ことです。
それは、戦わない、押し流されない、
ただ“現象の中に自分を置く”という心の姿勢なんです。
前のブログで書いた、ただ感情の中で「ぐ~」と感じて観る。
これと同じなんです、私的にですが・・・
たとえば──雨の中の自分を思い浮かべてください。
雨が降ることを止めようとはしない。
でも、濡れた地面に足を置き、
その冷たさを感じながら立っている。
この「感じながら、抗わず、ただそこにいる」
そんな心の状態が、“ゆだねる”です。
「何もしないこと」ではなく、
“為そうとする自己”を超えた、自然の働きに身を任せることやと思います。
だから、ゆだねるとは、
“あきらめ”ではなく“目覚め”の行為。
「抵抗」を手放した瞬間に、
初めて“ほんとうの自由”が生まれます。
次回は、この続き。お楽しみに。
エンパワLabo 氣功師の有岐でした。
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