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完璧を捨てて「納得」で生きる~人生の美学①~

Yuki.Kyoto

こんにちは。

人間形成の場、エンパワlaboの有岐です。
いかがお過ごしですか?

11月に入り、急に年末ムードを感じる季節になりました。
ちょうど今は、「今年の実り」を貯蔵する時期です。

 

今日はこんな問いかけから始めさせてくださいね。
あなたはいま、「他人の世界」に生きていないでしょうか?

他人の目を気にすればするほど、“あなた”という存在は少しずつ薄れていきます。
そして、ある日ふと気づくのです。

「誰の人生を生きているのだろう」
「何のために生きているのだろう」と。

 

 

実は、人とは「隠すことで安全を保とうとする」本能を持っています。

子どもが不登校になったこと。
思春期に荒れて不良仲間とつるむこと。
仮面をかぶったまま家庭を保っていること。
家庭に障がいがあること。
学歴が低いこと。
経済的に困窮していること。
家族の引きこもり。
仕事の問題。
アルコールや薬物への依存。
恋愛への依存。

――誰も口にしない、隠していること。

人は、恥や哀れみ、そして尊厳を傷つけられることを恐れて、
自分の弱さや「異質さ」を外に見せないようにします。

「このことを話したら、世間に批判されるかもしれない」
「知られたら恥ずかしい」
そう思って、誰もが心の奥に口を閉ざしたまま、
自分だけの痛みや葛藤を抱えているのです。


――では、あなたは「自分のこと」をどんなふうに見ていますか?
ここでいう“自分”とは、外側に向けて演じている「仮面の自分」ではなくて、
内側のあなたの目が見ている、本当の「あなた」のことです。


人は誰しも、自分を「不十分な存在」だと感じています。
自分は弱く、何かが欠けている――そう思い込んでしまうんです。

他の人が自分よりも立派に見えたり、
自分だけが何か足りないと感じて苦しむことはありませんか?

今日の話は、その“苦しみ”の根底にある構造――
恐怖によって支配されている世界の仕組みを見つめて、
そして、そこから抜け出すための「鍵」を探すものです。

読み終えたとき、
あなたの中にある“恐れ”の正体が見えて、

心が少し軽くなるかもしれません。
では、ゆっくり読んでくださいね。

 

 

  ??「承認」と「向上」―2つの生存戦略

人類の進化の歴史を振り返ると、
私たちは何万年という時間で、生き延びるために2つの本能を磨いてきました。

それが、「承認」と「向上」という特性です。

私たちは、長い人類の歴史の「最前線」に立っています。
つまり、「承認」と「向上」という特性を、より強く持つ人間が遺伝的に生き残ったということです。
そして・・・その末裔が、今を生きる私たちなのです。

「承認」と「向上」という2つの遺伝子の特性は、私たちがこれまで生き延びてこれた、生命が刻み込んできた“生存の智慧”と言えるかもしれません。

そして、それが今の私たちを苦しめる遺伝子装置ともいえるのです。

では、少しずつ解説していきますね。

 

??「承認」――孤立を避けるための本能


群れの中で生きる私たちにとって、仲間に認められることは命の保障でした。
だから人は、他者の目を気にし、「受け入れられる存在」であろうとします。
すなわち、「孤立」を避けようとするのです。

「いじめ」はその典型的な例です。
集団の中でヒエラルキーの上位にいる者が、誰かを排除しようとすると、
周囲の“日和見菌”のような人々は、自分を守るため――つまり「受け入れられる存在」であるために――その排除に加担します。

これは、人間が本来持つ特性なんです。
だから、学校や会社で表面的に問題を処理しても、残念ながら、根本的な解決にはならないんです。


この構造が存在するという「事実」を、
まず“知る”こと。

すると、誰かを裁く事で問題を収束しようなんていう「小手先の処理」でなくて、

「物事の本質は何か」を見るようになります。
それが、私たちの意識を変える、大切な1歩なんだと思うんです。


??「向上」――進化のエンジン

もう一つの本能は、「向上」です。
これは“進化のエンジン”とも言えるものです。

「もっとよく生きたい」――
その欲求があったからこそ、人類は火を使い、道具を生み、言葉を紡ぎ、文明を築いてきました。

でも、この「向上」はそれと同時に、ひっくり返すと
「もっと」、「まだ足りない」そういう衝動でもあるんです。
つまり、人間の遺伝子には“不足感”が深く刻まれているのです。


かつて生き延びるために必要だったこの能力は、
現代では“強迫装置”となって、私たちを追い立てています。

??????
「承認」は他者の評価を求め恐れる心へと変わり、
「向上」は終わりのない比較と競争へと姿を変えました。


以前、氣功の生徒さんがこんなことを言っていたのを思い出しました。
それは・・・

「連休の間、ネットを見てゴロゴロしていました。すると、なんだか自分が生産性のない無価値な人間に思えて苦しいんです。」そう言われたんです。

遺伝子に組み込まれた「承認」の装置は、
「何をしたか」
「どう評価されたか」
―この時だけ「自分は存在していい」と感じさせる構造になっています。
 
裏を返せば、
「何もしていない自分=価値がない」とあなたの無意識は信じているんです。
私たちには皆、同じ遺伝子がもれなく備わっています。
 
だから、何かをする事で存在を証明しようとするんです。
そこには、「承認を外からもらわないと自分が消えてしまう」
そんな深い「恐れ」があります。
 
その構造は、あなただけではなく誰の中にもあります。
 

その“強迫装置”の正体こそが、
私たちの中に刻み込まれた「承認」と「向上」の遺伝子なのです。

??????
では、「自分の存在」について少し触れさせてください。

「死」というものは、現代では物理的な距離としては遠く感じますよね。
けれど、精神的な距離はかつてないほど近くなっていると思いませんか?

精神的距離――それは、「自分が存在する意味」の距離です。

今の時代、食べ物も、衣服も、住む場所も、容易に手に入ります。
私たちは今、
物理的な「生存の恐怖」からはほとんど解放されています。
飢えで死ぬことも、夜に獣に襲われることも、ほとんどない。
けれど――
その豊かさの中だからこそ、物理的な死ではなくて、
人は“精神的な距離で感じる死の感覚”、
 
たとえば、
・誰にも必要とされない
・社会の中で自分の居場所がない
・自分の存在が価値のないものに感じる
こうした“見えない恐怖”があるんです。
 
この正体は、言い換えると「存在の承認を失うことへの恐怖」です。
 
古代の人は「命」を奪われることを恐れました。
その恐怖は、今の私たちにとっては、
自分が存在の「意味」を得られない、または、認められない、
そういうことが、死と直結する精神的恐怖だと思うんです。
 

あなたの「自分が存在する意味」。
あなたが心の奥底でずっと求めている「それ」は何でしょうか?
 
 
精神の死の恐怖から自由になる―大切なのは、
「生き残る」ではなく、「存在を感じる」ことなんです。
 
それは、
「誰かに認められて生きる」ではなく、「いのちそのものを感じて生きる」こと。
 
社会の「良い」「悪い」とか、点数という外側が決めた基準なんて放っておいて、
自分がやってみたい、生きてみたい、表現したい。
そんな感覚で、実際に何か小さいことを始めてみるんです。
 
 
 
スペイン画家のピカソの話をさせて下さい。
ピカソの生涯の絵の遍歴は、まさに彼の精神や内面の写し鏡なんです。
皆さんが知る「ゲルニカ」や抽象的な絵は晩年のものです。
 
実は、若い頃の彼の絵は写実的で、技術的にもまるで写真のような完璧な描き方だったんです。
それは、外側に認められ、世界を支配する力を求めた時期だったのだと思います。
 
そこから「青の時代(1901~1904年頃)」――
孤独と内面の闇への旅が始まります。
「孤独」「貧困」「死」「悲しみ」というテーマを描き、
彼の絵の色彩は青色に染まっていきます。
それは、外側の世界から内なる心にある「不足感」や「孤独」への探求の現れ。
彼は「内面にある自我の痛み」を、描くことを通して表現し続けたのだと思います。
ピカソは「内面にある自我の痛み」を、描くことで昇華していったのだと思います。
 
 
続く「赤の時代(1904年~1906年頃)」では、
人間の温かさ、愛、共感が描かれます。
サーカスの人々など、哀しみを抱えながらも懸命に生きる姿。
そこには、人間の愛の心の循環が在るのを感じられます。
 
私は思うんです。
太極図のように、光と影はひとつの円。
私たちはつい、光だけを見たがりますが、影の中にいる時にこそ光が見えるんですよね。
ピカソのように、人は自分の中の影と対面した時期を超えた後にこそ、
苦しみを通して‟人の美しさ”が見えるんだと思うんです。
光と影でひとつの「円」。
私たちの中の光と影はそもそも分かれてないんです。
悲しみの中からこそ生まれてくると思うんです。「優しさ」が。
 
少し長くなりますが、もう少し書かせてください。
次に「キュビズムの時代(1907年~)」が来ます。
キュビズムとはキューブ、つまり正方形のような視点。
写実で始まった描き方は、ここで「ものを一方向から見ること自体が”幻想”だ」と気づくんです。
「現実とは何か?」「見るとは何か?」――
哲学的な問いがここから始まりました。
 
すごいですよね。
出来事はただ‟ある”。
自分のこりまった「主観の眼鏡」で、それを一方向から見ている‟幻想”に過ぎない・・・
まさに意識の覚醒が始まった時期だと思います。
 
そして・・・1937年のゲルニカ。
私は学生の頃、もう30年以上前にマドリードで実物を見ました。
壁一面に広がるその絵に、静かな圧倒感を感じました。
 
そこには、今までの自己の表現を超えた「世界そのものの叫び」がありました。
芸術家は、魂の覚醒を「叫び」として表現する存在なのだと思います。
 
✨✨✨
「誰かに認められて生きる」ではなく、
「いのちそのものを感じて生きる」
 
―完璧さなんかまったく必要ないんです。
正しさや評価も関係ないんです。
自分が「納得」してるだけでいいんです。
「完璧を捨てて、納得で生きる」
それだけを握りしめていたらいいんです。
 
ピカソだって、その時その時の自分の精一杯を書いているだけ。
生涯で自身の中身が変化している様を、一生かけてただ表現しているんだと感じます。
完璧なんて捨ててしまおう!
自分の「納得」でいいんです。
 
自分が世界に生み出す「何か」。
小さくてもいい、誰にもしられなくてもいい。
あなたの心が話す「何か」を聞いて、実践してみて下さい。
 
初めはほんの些細なことでいいんです。
でも、その「心に従ってした小さなこと」を積み重ねるうちに、
「今日もできた」「今日も少しでもできた」――
その実績が、自分への信頼に育っていきます。
 
やがて、だんだんと自分を心の奥から信頼できるようになっていくんです。
「誰かに認められて生きなくてもいい」
「自分のままで存在することで充実を感じられる」
 
??????
それが、精神の死の恐怖感が不思議となくなっていく方法なんです。
「生き残る」ためではなく、
「存在を感じる」ために、生きるということなんです。
 
 
今日は、昔息子が5年生の時、
「ママ生きるって大変なんやね」
と泣きながら言ったのを思い出して、今の私がその時の彼に向って
伝えたい言葉を書いてみました。
 
 
今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
あなたの感想、お待ちしています!
氣功師の有岐でした。
 

 

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This column was published by the author in their personal capacity.
The opinions expressed in this column are the author's own and do not reflect the view of Cafetalk.

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