フランス語の不思議な食べもの表現

Kaoru77

フランス語には、不思議な食べもの表現がたくさんあります。  

しかも面白いのは、フランス人自身も「なんでそう言うんだろう?」と説明できないものが結構あること。


でも、その背景をたどっていくと、昔の暮らしや庶民感覚、時には歴史まで見えてきます。


今日は、そんな「食べものフランス語」の世界を少しのぞいてみましょう。




「りんごの中に落ちる」と、なぜ気絶?


フランス語で、


> tomber dans les pommes


と言うと、「気絶する」「失神する」という意味になります。


例えば、


> Quand il a vu le sang, il a failli tomber dans les pommes.

(血を見て彼は気絶しかけた)


のようによく使われます。


でも直訳すると、

「りんごの中に落ちる」。


かなり謎です。


実は、この表現の由来は完全には分かっていません。  

ただ、有力なのは、昔使われていた


> être dans les pommes cuites


(煮りんごの中にいる)


という表現から来たという説です。


昔、「煮りんご」は、ぐったり柔らかく崩れた状態のイメージがありました。  

そこから、


- ぐったりしている

- 力が抜けている

- 疲れ切っている


という意味で使われるようになったと言われています。


さらに19世紀の作家ジョルジュ・サンドが似た表現を使ったことで広まり、最終的に


> tomber dans les pommes


という現在の形になった、という説があります。


フランス人にとっても、「なぜりんご?」と聞かれると少し困る表現です。




元気いっぱいなのに、なぜ「桃」?


フランス語では、


> avoir la pêche


と言うと、「元気いっぱい」という意味になります。


例えば、


> - Tu as la pêche ce matin !

(今朝すごく元気だね!)


のように、とてもよく使われます。


でも、なぜ桃?


実はこれは比較的新しい表現で、1960〜70年代頃から広まったと言われています。  

「桃そのもの」に特別な意味があるというより、みずみずしく健康的な果物のイメージが関係しているようです。


しかもフランス語には、


> avoir la patate  

(じゃがいもを持っている)


という、ほぼ同じ意味の表現まであります。


桃でも、じゃがいもでも、とにかく元気ならいい。  

そんなフランス語の適当さ(?)が少し見える気もします。




笑顔が「バナナ」になる理由


機嫌がいい人に対しては、


> avoir la banane


と言います。


例えば、


> - Il avait la banane toute la soirée.

(彼は一晩中ニコニコしていた)


のような感じです。


これはかなり想像しやすい表現です。


にっこり笑った口元が、バナナみたいにカーブして見えるから。


さらに、


> avoir une banane jusqu’aux oreilles  

(耳まで届くバナナを持っている)


と言えば、「満面の笑み」。


フランス語は、こういう視覚的な比喩がとても好きです。




「サラダを語る」と、なぜ嘘になる?


フランス語には、


> raconter des salades


という表現があります。


意味は、「でたらめを言う」。


例えば、


> Arrête de raconter des salades !

(変なこと言うのやめて!)


のように使います。


サラダなのに、なぜ嘘?


由来は完全には分かっていませんが、有力なのは「ごちゃ混ぜ」のイメージです。


サラダは、いろいろな材料を混ぜ合わせて作りますよね。


そこから、


- 話を盛る

- 話を混ぜる

- 話をややこしくする


という意味になったと言われています。


確かに、話を盛る人の話って、いろんなものが混ざっています。




「豆の終わり」が、本当の終わり


フランス語で、


> c’est la fin des haricots


と言うと、「もう終わりだ」「万事休す」という意味になります。


例えば、


> Si on rate le dernier train, c’est la fin des haricots.

(終電を逃したらもう終わりだ)


のように使われます。


直訳すると、

「豆の終わり」。


実はこれ、昔の寄宿学校や軍隊の食事事情が関係していると言われています。


当時、豆は安価で最後まで残る食材でした。


つまり、


- 肉がなくなる

- パンもなくなる

- それでも豆だけは残る


でも、


「その豆すら無くなった」


となれば、本当に何も残っていない。


だから、「完全終了」という意味になったのです。


食堂のリアルな絶望感から生まれた表現だったのかもしれません。




ほうれん草にバターを入れる、小さな贅沢


もう少し生活感のある表現もあります。


> mettre du beurre dans les épinards


直訳すると、

「ほうれん草にバターを入れる」。


意味は、

「家計を少し楽にする」「生活をちょっと豊かにする」です。


例えば、


> Ce petit boulot met du beurre dans les épinards.

(このちょっとした仕事が家計の足しになる)


のようによく使われます。


昔、ほうれん草は庶民的で質素な食べ物でした。  

そこに、当時は高価だったバターを加える。


それだけで、ちょっと贅沢になる。


この表現には、「大金持ちになる」というより、


“少し余裕ができる”


という、とても生活感のあるニュアンスがあります。


 


恋多き人の心は「アーティチョーク」


フランス語では、惚れっぽい人を、


> avoir un cœur d’artichaut


と言います。


例えば、


> Il tombe amoureux tout le temps. Il a un cœur d’artichaut.

(彼ってすぐ恋するよね)


のように使われます。


アーティチョークの心を持っている、という意味です。


アーティチョークは、葉を一枚ずつ取って食べる野菜。


そこから、


- 心を少しずつ配る

- 愛情をあちこちに向ける


というイメージが生まれました。


しかも昔から、


> cœur d’artichaut, une feuille pour tout le monde  

(アーティチョークの心。みんなに葉を一枚ずつ)


という言い方まであります。


ロマンチックなのか、浮気っぽいのか、少し微妙です。




こうして見ると、フランス語の慣用句には、


- 昔の暮らし

- 食文化

- 庶民の感覚

- ちょっとした皮肉


がたくさん詰まっています。


しかも、パンでもワインでもなく、


- 豆

- サラダ

- ほうれん草

- アーティチョーク


のような、意外と庶民的な食べものが多いのも面白いところ。


単語や表現から、その国の国民性やユーモアが見えてくる瞬間があります。


食べもの表現は、その入口としてぴったりかもしれません。


專欄文章僅為講師個人觀點,不代表 Cafetalk 立場。

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