床の間にあった祖父の賞状の記憶はあるのですが、それが何の表彰だったのか小学生時分には?で、今回改めて知ることが多いのですが…
没後に自費出版している楽譜に当時の身内のメモがあり…音楽鑑賞振興会で論文が認められたことがあるとかで調べたところ、資料室にあるらしい!
ということで、行ってきました。
駅前で迷子になったので、往路はタクシー汗
音楽鑑賞教育 誌バックナンバー
目録がエクセルファイルで検索できるのですが、中身の全てが目録化されているわけでもなさそうなので、左から順に…
ありました!
全国の小学生〜高校生の作文や、教員の論文の他
、学校の音楽授業の指導知見の共有みたいな内容です。
で、論文の目次を見てビックリ。
この辺りの話は、およそごまかしがちだったり、体系的に言語化しにくいのですが、かなりロジカルです…
特にビックリしたのは、書き出しなんです。
僕自身は大学の卒業論文が 生活の中の音楽 というタイトルで、幼稚園での実験的な企画や内モンゴル、クレジャニ、八重山民謡の取材から弾くこと聴くこと(音楽するということ)や感動とは何かなどについて書きました。
佳作どまりでしたが、そのご縁で他大学の講義ゲストに呼んでいただいたり、他大学の学生の論文の下見指導とかさせていだいたりと言うことがありました。
その時の書き出しが…音楽は、必要があって生まれて、今も我々の生活と共にある…みたいな内容にしたんです。
で、ご覧ください。
祖父の論文の書き出し。
そっくりなんですよ。こわいほどに笑
この他、僕が日々言ってることですが…
情操教育って簡単に言うけれど、それを具体的にイメージできない人ほど、その言葉でお茶を濁して表面的にただ弾いて帰っていく。音楽や美術の教育を通して一人の人の中に何が起こるのか、それが社会になにを与えるのか、自分なりに言語化できないのはよくない。
これも似たようなことを、いろんな配慮なのか「…」を部分的に用いつつ書いてありましてね、蔵書を見て、似たこと考えとったんかなぁ〜と空想していたのが、ほんとに似たことを考えていたんだと知りました。
あと、選考委員の当時の音大の重鎮の先生方の講評も載っていて、フェアな見方としてとても参考になりました。
「音楽美の認識を柱としての鑑賞と表現とを同時的に行う方法は鑑賞の本質によったもので組織的論述に多くの特徴が認められた。」
「音楽鑑賞教育論としてよくまとまっており、理論的展開も立派である。理念論からの実践的発展にやや乏しい憾みがある。」
一読者としては頷くところです。が、1970年代の話で、田舎の島でのことですからね…という背景も理解します。
そして、論文以外にも、寄稿している教育計画例みたいな文章がありました。
そこに何のために作曲をしているか、がありました。
僕は、譜読みをしている中で、
わりと保守的な作曲スタイルと、
詩の日本語を丁寧に音符や拍に置いていくところや、詩の視点や情景や台詞の違いを曲の展開や場面の変化に与えている丹念な仕事から、
すこし大袈裟に言うとコダーイシステムとか、バルトークのミクロコスモスのように、その時代に合わせた、その国、その文化圏での指導法を考える流れを理想としてやっていたことなのかなぁ、と思っていたんです。
およそ当たっていました。
興味深いのは、そこで創作することと鑑賞することはひとつのものの一面であるという理論を立てて書いていることでした。
ここ数日この部分を、僕が自分なりに言語化したらどう書くかなぁー、と考えてみているところです。
コンサートで作品を演奏するのは、その楽譜があればできますし、昭和の日本語の歌なのでトラディションもある程度わかります。
楽譜以外のところで、
わかりやすいエピソードから作曲家の心情を推測るのは、聴く側には知識の味わい、環境として大事な面もありますが、
弾く側の場合、弾いている間それをただ念じても何も変わらないと思っています。ぴちぴちに若い時は念じることでいろんなミラクルもあったりしますが…
一方で、背景や目的は大事だと思うんです。
アプローチが変わってくるので。
Comments (0)