※「小さな観察メモ」は、レッスン中や日常でふと気になったことを、まだ整理しきれていない段階のまま気軽に残しているメモです。後から形が変わることもあります^^
英語の学び方について、「ネイティブを目指さなくていい」と、よく言われます。
完璧な発音じゃなくていい。ネイティブそっくりの言い回しじゃなくていい。通じればいい。
私も、半分は、まったくその通りだと思っています。
ネイティブの発音や言い回しを、外側からそっくりコピーしようと躍起になる必要は、ありません。というより、外側の形だけを取り出してコピーするのは、たぶん、やろうとしてもできないんです。
発音の形を、外から貼りつける。言い回しを、借りてくる。それだけを一生懸命やっても、外側の形だけが、ぽつんと浮いてしまう。借りものは、なかなか自分のものになりきらない。
形というのは、本当は、後からついてくるものなんです。奥にある「やり方」のほうに入っていけたときに、その結果として、自然に備わってくる。だから、形だけを先に取り出して目指すのは、あまり意味がない。というより、順番が逆で、結果としてうまくいかない。
だから、「外側のコピーを目指さなくていい」。これは、本当にその通りだと思います。
ただ、一つだけ、気になることがあります。
「目指さなくていい」を、その奥にあるものまで含めて、まるごと手放してしまうのは、もったいないんじゃないか、ということです。
発音や言い回しの、形そのもの。その奥には、「やり方」とでも呼ぶべきものがあります。どう感じて、どこに意識を向けて、その音やその言い方にたどり着いているのか。形は、その奥のやり方が、外に出てきたものなんです。
だから、目指す価値があるのは、形のコピーではなくて、その奥にある「やり方」のほうです。そして、奥のやり方に入っていけると、形のほうは、後から自然についてくる。形は、ゴールではなくて、その奥に入っていくための入口なんです。
発音も、そうです。自分でその響きを出せないと、その響きが、体の中に入ってこない。響きには、それを出している人の感じ方が乗っているので、自分で響かせられないと、奥の感覚まで受け取れない。出せないから、聴けない。聴けないから、また出せない。そうやって、ぐるぐるしてしまう。
文法も、同じです。文法は、形のルールというより、意識の向きなんです。英語は「誰が」を先に立ててから話が動く。日本語は「どんな様子か」から入る。語順や主語の立て方は、その向きが、形になって出てきたものにすぎません。
だから、目指したいのは、形を正確にコピーすることではなくて、その奥にある「やり方」——どう感じて、どこに意識を向けているか——のほうに、自分の体感として入っていくこと。発音も文法も、そこへ入るための通路なんです。
ここまでが、私がいつも思っていることです。
ただ、ここで一つ、宿題が残ります。
現実の世界では、ネイティブが一人もいない場所でも、英語はたくさん使われています。むしろ、そっちのほうが多いくらい。それを、どう考えるか。
実際、ネイティブが一人もいない場で英語が使われる場面は、たくさんあります。とくに、国際的なビジネスの場。ノンネイティブ同士が、英語で交渉し、取引を進めていく。
そういう場の英語は、私がここまで話してきた「英語」とは、少し違う道具なのかもしれない、と思うことがあります。
お互いに誤解が生まれないところまで、削ぎ落とす。言葉の裏を読みすぎない。必要な信号だけを、確実に渡し合う。そういう、いわば「国際ビジネス語」とでも呼ぶべきものが、そこにはあります。
これは、英語の劣化版ではありません。その場で誤解なく物事を進めるために、使い手たちが長い時間をかけて磨いてきた、独自の手法です。
しかも、よくできた道具なんです。自分の認知や心と深く結びついた「自分の言葉としての英語」を育てるのに比べると、形がシンプルで分かりやすい。多くの人が、わりと短い時間で使い慣れることができる。母語の感覚を残したまま、道具として使いはじめることもできます。だからこそ、これだけ広く、世界中の現場で使われている。
ただ、それは「その場で誤解なく仕事を進める」ために、ぎゅっと最適化された道具でもあります。最適化されている、ということは、その場の外には、添いにくい、ということでもあるんです。仕事の交渉からふっと離れて、自分が本当に感じていることを伝えようとしたとき。言葉が、なかなか心に届かない。
実際、ネイティブがその場に入るときは、ネイティブのほうが、この手法を学ばなければならないことすらあります。ネイティブの英語のまま入っていくと、かえってすれ違ってしまう。そんなことも、起こります。
以前、その「国際ビジネス語」を自由に使えるようになりたい、そのために発音や文法を学びたい、と、最初にはっきり伝えてくださった方がいました。私のところに来る方としては、わりと珍しいことです。
少し考えて、私はその方に、同じような現場でビジネスをしている、その現場感覚を持った人から学ぶことをお勧めしました。私のやり方では、その目的に対して、効率よくお役に立つことが難しい、と正直にお伝えして。
向いている道が、違ったんです。目指している先が、違った。
それから、もう一人、思い浮かぶ人たちがいます。また少し違うタイプの使い手です。
日本語ベースのまま——つまり、内側をネイティブの向きに組み替えてはいないのに、英語で、とても豊かに人と交わっていく人。
完璧な発音でも、ネイティブそのものの言い回しでもない。むしろ、削ぎ落とした実用の英語に近い。でも、その英語に、自分の個性をしっかりのせている。表情、間の取り方、どこから来るのか分からないおかしみ。そういうものぜんぶで、相手を自分の世界に引き込んでいく。
コミュニケーションって、言葉そのものだけで成り立っているわけではないんですよね。言葉が完全に噛み合っていなくても、相手の側は、その人の輪郭を——「この人、面白いな」という像を——ちゃんと捉える。それで、豊かな交流が成り立つ。
これは、これですごいことです。
ただ、見ていて思うのは、その人は、たぶん逆方向では、少し届きにくいんじゃないか、ということです。自分の世界に巻き込むことはできる。でも、相手が何を感じて、どこからその言葉が出てきて、どんな景色を見ているか——その内側を捉えるのは、ちょっとずれた形でしか、できにくいのかもしれない。発信する力はとても強いのに、受け取るほうは、また別の話。少し、一方通行なんです。
そして、これはこれで、かなり特殊な技能でもあります。誰もが目指せる位置にあるわけではない。個性や、場を引き寄せる力みたいなものが要る。その立ち方を居心地よく感じるかどうかも、人を選ぶ気がします。
こうして見ると、ひとくちに「英語でのコミュニケーション」と言っても、少なくとも三つの方向があるんだな、と思います。
ひとつは、国際ビジネス語の方向。削ぎ落とした共通の道具を、みんなで使う。
もうひとつは、日本語ベースのまま、シンプルな英語を使いながら、言葉の外側で自分の個性や世界に相手を巻き込んでいく方向。少し一方通行なところには目をつぶって、それも込みで楽しむ。
そしてもうひとつが、英語そのものを、まるごと内側から習得していく方向。
もっとも、この三つは、きれいに分かれているわけではありません。とくに真ん中の「巻き込む」方向は、両側の二つを、人によって、それぞれのバランスで、少しずつ含んでいることもあると思います。
どの道に進むといいかは、その人が、何を求めているかによります。
とっつきやすさでいえば、国際ビジネス語の方向が、いちばん早く形になります。ただ、それは普通の言語の習得とは少し向きが違うので、あとから「言葉そのものとして英語をやりたい」と思ったときには、少し向きを取り直す時間が要ることもあります。
個性で人を巻き込む力があって、多少の一方通行は気にならなくて、その形のやりとりで満ち足りる人。そういう人は、真ん中の道が、いちばん心地いいのかもしれません。そして、もしいつか、それだけでは物足りなくなったら、そのときに、向きを変えて進んでいけばいい。
でも、もしそういう特別な事情が、とくにないのなら。私は、最初から、言葉そのものとしての英語を目指してしまうのが、いちばんいいんじゃないかと思っています。
遠回りに見えて、こっちのほうが、途中の道のりそのものが満たされやすい。借りものを途中まで積んで、あとから向きを取り直すより、最初から自分の内側で英語が動く感覚を育てていくほうが、結局はなめらかなんです。
どの道も、行き止まりではありません。今いる場所から、いつでも、別の道へ移っていけます。
ここで、たいていこう言われます。
「でも、その『やり方』なんて、結局100%には届かないでしょう」
その通りです。ほとんどの場合、途中までしか行けません。私自身も、途中です。なんなら、ネイティブだって。しかも、こちらの道は、正直、もっと時間も手間もかかります。近道とは、言いにくい。
でも、ここが、いちばん言いたいところなんですが。
目指して途中まで来た人と、最初から目指さなかった人は、同じ「途中」でも、中身がまるで違うんです。
同じ地点に立っているように見えても、そこまで歩いてきた道が違う。
最初から「目指さなくていい」で歩いてきた人は、外側の正解を借りて、貼りつけて、つぎはぎでつないでくる道を歩いています。だから途中で止まると、借りものが途中まで積まれた状態で止まる。
奥の「やり方」を目指して歩いてきた人は、向きそのものを少しずつ変えながら来ています。だから途中で止まっても、その途中までは、ちゃんと自分の内側から立ち上がった英語になっている。
これは、理屈として言っているのではなくて、レッスンをしていると、実際に、何度もそういう瞬間に立ち会います。途中だとしても、その人の内側からちゃんと立ち上がってきた英語は、聞いていて、手応えがまるで違うんです。
だから、私はこう思っています。
「ネイティブを目指さなくていい」——外側のコピーについては、その通り。完璧にしなくていい。
でも、それを、奥にある「やり方」まで含めて手放してしまうのは、もったいない。そこは、目指したほうがいい。たとえ途中までしか行けなくても、目指して歩いた道のぶんだけ、英語が自分のものになっていくから。
ゴールに届くかどうか、の話ではないんです。どっちの道を歩くか、の話。
外から借りてくる道か、内側から立ち上げる道か。同じ「途中」でも、歩いてきた道で、言葉のなじみ具合が変わる。
そんなふうに、最近ぼんやり考えています。
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この話は、note では前編・後編に分けて書いています。とくに前編では、発音と文法が、なぜ「形」だけでは届かないのかを、もう少しじっくり見ています。
英語そのものを内側から育てていく、という方向に興味がわいた方は、よければプロフィールや他のレッスンものぞいてみてください^^
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