こんにちは、エンパワlaboの有岐です。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
本日は、揺れる心のままで、揺るがない「場所」で生きる。
——武蔵が伝えた「観の目」で、あなたの中にある「もう一つの自分」 。
「もう一人の自分」—今回は文字を読むというより、感じながら読んでみて下さい。
きっと、心の奥で動く何かを感じられると思います。
あなたには、もう一つの目がある
あなたは今、何を見ていますか。
仕事のこと、人間関係、お金、将来の不安……。
毎日、さまざまな「問題」が目の前に現れます。
そして、それを何とかしようと考え、動き、万策尽きた後、「あぁ…もう、どうにもならない」そう感じて、今ではもう‟見ないふり”をしているのではないでしょうか。
「私は今、どんな目で、それを見ているのだろうか?」
そういった視点で、問題を考えたことがありますか?
実は、私たちは自分がどんな「目」で物事を見ているかに、ほとんど気づいていません。
目の前の出来事をすぐに処理してしまおうと、つい躍起になっていることにすら気づかないで、思考の波に飲み込まれてしまっているのです。
それは、虫眼鏡で見るような近いものを望遠鏡で見ようとし、
目を細めて遠くを見るようなものに顔を近づけすぎているようなもの。
そんなことを、気づかずにしているのです。
目の使い方を知らないままに生きると、「人生」という道を歩く際、不具合が起きます。 例えばこんなこと。
・小さなことに必要以上に消耗して、本当に大切なことが見えていない。
・同じ問題が、形を変えて繰り返される。
・または、解決したはずなのに、何も変わった気がしない。
何がおかしいんだろう、どうしたらいいんだろう…。
今困っていること、不安に思うこと、どうにかしたいけど、もう半ばあきらめていること。
あなたの頭の片隅にいつも気にしている、「それ」は、方法や行動では、何ともならないことに気づいているはずです。
・・・
目の前の人や出来事を、いつも同じ「一つの目」だけで見ていることに気づいていますか?
「目」の使い方は、一つしかないと思い込んでいませんか?
宮本武蔵が書き残した五輪の書の中で、こんなことを言ってます。
「観(かん)の目を強く、見(けん)の目を弱く」
剣豪が最後に伝えたこと。それは、剣の技そのものではなく「意識の使い方」だったんです。
「観の目」「見の目」って、何だと思いますか?
今日は、「もう1つのあなた」につながる、目の話です。
読み終わった後、今まで向かい合わず、見ないふりをしているものへの思いがけない視点が生まれ、これからのあなたの人生に変化が始まるかもしれません。
昔、子供の頃やデートでメリーゴーランドに乗った時のことを思い出してみてください。
馬が上下に動いて、音楽が流れ、風を感じながら、そのひと時の瞬間を楽しんでいます。
あなたは笑って手を振っていたかもしれません。 その楽しさのすぐ下に、あるもう一つの感情…
「もうすぐ終わってしまう。」
そんな微かな焦りに、気づいていたでしょうか。
そして動きがゆっくりになった時、表面の心はがっかりします。
でも、同時に深いところで、「やっと終わった」と、どこかでホッとした自分はいなかったでしょうか。
そして…完全に止まって、席を立つ前の時間。
あなたのこころは、今度はもう次の乗り物を探し始めているのです。
・・・
これは子どもの話ではなくて、私たちの「日常」そのものなんです。
仕事、恋愛、お金、承認、刺激…
私たちは、乗っては降り、降りてはまた次を探してしまうのです。
その繰り返しの中で、あなたは意識して「止まった」ことがありますか?
この動き全体を、じっと「観ている存在」が自分の中にあることに、気づいたことがあるでしょうか。
五輪の書が本当に伝えたかったこと
武蔵は五輪の書の中で、視点についてこんな風に表現しています。
「遠いところを近く見て、近いところを遠く見よ。」
また、違う表現でこうも言っています。
「観の目を強く、見の目を弱く。」
この「観の目」と「見の目」、どう違うと思いますか?
観察の「観」という目。
これは広く深く物事をじっと眺める視点です。
そして、見るという「見の目」。
これは、目の前のものを追う視点です。
これを剣術の話として読む人は多いですよね。
彼が晩年に書き残したもの。それが本当に剣の技だけを伝えるためのものだったのでしょうか?
彼の言う「目」とは、単に視覚の話ではなくて、「心理的距離の取り方」なのです。
??「見」の目とは、
目の前のものを具体的に追う目。
楽しさや、焦りや、落胆…、そういった、次々と湧きおこる、その波に乗りながら、‟波と一緒に揺れている目”のことです。
??一方「観」の目とは、
その波全体をじっと眺めている目です。広く深く物事を捉える目。
‟全体を俯瞰して、表面に現れていない意図や流れを感じ取る視点”のことです。
これが今回のお話の、あなたの底にある「もう一つの自分」です。
では、この「観の目」とはいったい何なのでしょうか。
「こころ」という言葉の中に隠されていること
日本語には、言葉の中に動きが宿っています。
日本語の「こころ」の語源は、「コロコロ動くもの」だと言われています。
心とは球(たま)のようなもの。瞬時に変化し、止まることがないんです。
喜び、怒り、不安、期待…。
それこそ、次々と形を変えながら、止まることがありません。
だとすれば、その動き続ける心で物を見ようとしても、見ているその「心そのもの」がすでに揺れているのです。
では、ここで、ひとつの視点を持ってみてください。
もし心が揺れているとしたら、その「揺れ」を見ているのは、いったい誰なのでしょうか。
「観の目」とは、視覚でも、心の目でもありません。
それは意識の目です。
そもそもコロコロとした、球(たま)である心は、無理に止めようとしてもできないものなのです。
こころは揺れたらダメなんだ、もっとどっしりしないといけないんだ…
そう思っていませんか?
揺らがない心がいいのではないのです。
動じない心がいいのでもないのです。
揺らいで、いいんです。
心とはそもそも、そういうものなんです。
多くの人は、「観ている自分」の存在に気づいていません。なぜなら表層の心の動きと自分が一体になってしまっているからです。
思考や感情がグルグルしてしまう…それを悪いことのように捉えてしまっていませんか。
いいえ、そうではないのです。
それは単に「見」の視点、つまり、一つ一つの波が自分だと錯覚し、「同化」している状態というだけです。
波は結局は全て「海」から発生している、一瞬の形。
しばらくすると必ず 海に戻ります。
ずっと波のままでいることなどできないんです。
心が揺らぐ自分を責めて、揺らがない自分を作ろうとするなんて、そんなこと、できなくて普通なんです。
心を揺るがせて、波を観て色々なことを感じていく…
実は、これが大切なんです。
心を揺るがさない人は、何も感じられないですから。
それを観ているのが、あなたの意識の下に存在する「観」の目なんです。
次回は、この続き。
今回も最後まで読んで頂き、本当に有難うございました。
氣功師の有岐でした。




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