20年くらい指導業をやってきて、経験的に思うことを書いてみたいと思います。
大前提として、〜に効果がある、という目的で楽器をやるのは微妙です。
楽器や音楽そのものが面白いからやるのであって、それ以外に価値はありません。
リベラル・アーツです。
例えば右脳に効くという目的で登る山と、バイオリンが楽しいと登る山は、そもそも山が違うわけです。
バイオリンが楽しいと登る山の途中に、〜に効くとか、色んなオプションが勝手についてくるんですね。途中で見える景色が違うということです。
ただ、本人が何かのきっかけで、(親御さんの意図とは別に)登る山を選び直すこともありえます。
なので始めるキッカケが正しいかどうか、キッカケ次第で結果が違うのか、の判断はできないです。
「〜事情でやる気をなくしてしまって...」と尋ねてこられた生徒さんもたくさんいらっしゃいましたが、95%みんなやる気になって、レッスンに通わなくなった後も楽しんでいるようです。
特別なことは何もしていません。
「バイオリンはこんなに楽しいんだヨ〜人生かける価値があると僕は思ってるんだぁ〜」という気持ちでこちらが楽しく笑顔でスパルタレッスンをしているだけです。
指導者や各指導者のカリキュラムとの相性は、やってみないとなんともいえないのですが、残りの5%がどんな状況だったか、共通点は以下です。
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生徒くん、生徒ちゃん自身で楽器ケースを持たない。
なかなか楽器を買い与えない
ブランドで楽器を選ぶ
子供の自主性にまかせる
親御さんが指導内容に注文をつける
外に対するプライドが捨てられない
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まず、楽器に関する要素。
バイオリンは個人持ちの楽器ですが、
よくもわるくも、基本的に持ち主と楽器は一体です。
ピアノと違って「僕の楽器」「私の楽器」という感覚があるものです。
値段に関わらず、親がこれだけのことをしてくれたんだという覚悟が「私の楽器」にはあるわけです。
その感覚がない場合には親御さんが持ち運ぶことに本人も違和感を持たない印象です。
また、楽器を買うとろにも落とし穴があります。この国のこのメーカーがー、と楽器店のセールス文句に従って「買い与えることに対する(買い物としての)満足」が欲しい親御さんも大変多い。
親御さんの気持ちもわかりますが...子どもさんの気持ちとの距離があります(汗)
はっきりいうと、今後数十年で値段の上がるバイオリンや弓なんて、そうありません。
そもそも仕入れ値と売値は違います。メルカリなどの「素人の値付け」はアテにしてはなりませぬ。
ごく一部を除き、買った値段で売れるということはないです。
もっとも、値段やブランドよりも、セッティングが正しいか、音色があるかどうか、が肝です。
(あんまり言いませんが、楽器の能力がちゃんと出せるセッティングができてないないまま販売しているお店は多いいんですヨ。作ることとセッティングすることは別の次元の話でもあります。)
セッティングが悪くて、音を出す楽しみを知ることができずやめた子もいました。
音色という要素が楽器という環境にないために、その一点だけ成長がなく、つまらなくなり、やめた子もいました。
楽器で音を出す行為は、演奏の中で言うと、自分の口、喉で声を出す行為と同じことです。
思うように声が出ないストレス。
そして、思うように音が出ない環境(セッティング)に慣れてしまうと、感覚の基準がずれているので、あるべき環境を得られたときに困惑します。困惑すると言うのは、今まで信じてきた自分の価値観や自分の楽器を疑うということなのでつらいものです。
そもそも、なかなかフルサイズを買ってもらえない子もいます。そのことが残念でやる気がなくなる子は多いです。
次に、レッスンの要素。
何かを得るためには何かを失う、ということを子どもさんは知りません。
例えば、より良い音を出したいと思えば、ゲームをする時間は削らないと、投資に充てる時間は生まれません。有限である時間にわがままが通用しない、と早いうちに受け入れ慣れない場合、お稽古事は続きません。
「うちの子はこういうタイプなのでこうして下さい」
たまにあります。
僕は基本、身体的な都合は別として、指示はお断りします。
ほとんどの場合お子さんは、親御さんの前で見せない姿を指導者の前で見せます。
家族、親戚、学校の先生以外の大人と接する時間は意外と子供さんにとっては特別です。
いろんな考え方があるんでしょうが、お子さんの気質や状態について、親御さんの視点からの解釈と対応まで指定された時に、指導者がそれをそのまま鵜呑みにするのは良くないと思っています。
親御さんすら、子どもさんにとっては環境の一要素です。メディアが自分のことを棚に上げて色々コメントするのと似ています。
当事者とズレていると、「あー、この先生もわかってくれないか」となります。
本当の情報は現場の当事者に触れてとるべきでしょう。
顔色、姿勢、反応、音...大抵「なにかあったの?」
ということはわかります。
お稽古ごとも真摯に向き合うと「今の自分を受け入れて、こうありたい、という自分になるための努力が必要」になります。
今私はこれだけのことができる!と言い張っても無駄です。そのやり方でつまづくなら、今できる方法を捨てて一からやり直さないといけない場面があります。一回音が出ないレベルになります。
ここに耐えられない子は続きません。
自分が納得できるレベルに仕上げる、という内面に対するプライドは大事です。
でも、私はこれだけ弾けるんだぞ!という外に対するプライドは本当に壁です。壁の前にある殼かもしれません。このケースは、コンクールでいい成績をとった子でもコンクール後にありました。
ながなが連ねてみましたが、予想どおりでしたか?そんなこと?と思われたでしょうか?
始め方がどういうキッカケでもいいと思いますが、イヤイヤはじめたけど、後々そのお稽古事にハマることもよくあります。せっかくご縁があってお稽古事を始めたなら、「自分が何者か」の一つの核になるまでは続けてもらいたい、とまともな指導者は思っているはずです。
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