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「母語話者なら誰でも教えられるわけではない」のはなぜなのか?

Naoko.S

 日本語教育に少し関わったことがある人なら「日本語母語話者なら誰でも日本語を教えられるわけではない」という事実に気づくでしょう。しかし、一般にはまだまだ日本語教師の専門性は社会的に認められておらず、そのことが日本語学校などに勤務する日本語教師の待遇の低さにつながっていると考えられています。今年20244月に新設された「登録日本語教員」資格は、日本語教師の専門性を国家資格の形で認定しようとするもので、日本語教師の社会的地位向上のための取り組みでもあります。

 日本語教師が国家資格化されれば「日本語母語話者なら誰でも日本語を教えられる」という認識が社会からなくなっていくでしょうか?私は残念ながらそうではないと思っています。それは、なぜ日本語母語話者なのに日本語が教えられないかが明確ではないからです。日本語を母語とする人は日本語について膨大な知識を持っているはずです。また、学校教育で日本語の動詞の活用や助詞などの知識も学びます。それなのになぜ外国人に日本語を教えようとするとできないのでしょうか。

 その答えは簡単に見つけられることではないのかもしれません。

 

 私は大学で主に日本語を母語とする大学生に日本語の教え方を教えています。といっても日本語教師養成コースのようにプロの日本語教師を目指す学生たちではなく、ほとんどの学生は教養として外国人の目から見た日本語の文法に興味を持って履修しています。で私はこの科目で学生たちに日本語学習者の誤用を紹介しています。たとえば、以下のようなものです。


(1) 
(卒業式の日、留学生が先生に感謝を伝えようとしている場面)

先生は私に親切に教えましたから、とても感謝しています。

先生は私が悩んでいたとき、相談にのりました。

先生のアドバイスのおかげで、大学に進学することができました。

本当にありがとうございます。

 

(2)  (ネットで買った服について日本語学習者が話している場面)

この服はきれい人じゃないとだめ。

今田美桜ちゃんが着てるとかわいいだと思って買ったけど。

私は似合うじゃない。

 

 どこが間違いか、わかりますか?また、なぜ間違いだと言えるのか、説明できますか?

日本語を母語とする学生たちですが、なんとか間違いだと思われる箇所を指摘できたとしても、なぜ間違いか、適切に説明できる人はまずいません。ときどき上手に説明できる人がいたと思ったら、たいていは留学生か幼い頃に日本に来た「外国につながる」学生さんです。

 

誤用(1)は、授受表現の非用が問題になっています。つまり、感謝を伝えようとしている場面で「先生が親切に教えました」や「先生が相談にのりました」と言うのは誤りで、「先生が親切に教えてくださいました」「先生が相談にのってくださいました」と表現するべきです。日本語では授受表現「~てくれる」「~てくださる」などを使わなければ相手の行為に恩恵性を感じていることを表せないからです。

 また誤用(2)は、形容詞のタイプや品詞の判断の誤りが問題になっています。「きれい」は「な形容詞」と言われるタイプの形容詞(国語教育では「形容動詞」と呼ばれます)で、名詞の前に来るときは「きれいな人」のように末尾に「な」が付きます。「かわいい」は「い形容詞と言われるタイプの形容詞で、「かわいいだと思って」のように末尾に「だ」を付けてしまうと誤用になります。な形容詞は「ひまだ」「しずかだ」のように末尾に「だ」が付きますので、形容詞のタイプを混同している誤用だと言えます。また、「似合うじゃない」は「似合う」がそもそも形容詞ではなく、動詞であるという品詞の判断が誤ってしまったために起こった誤用だと考えられます。

 

 以上のように説明すると、初めて聞いた学生たちは「なんて日本語は難しい言語なんだ」と驚きます。しかし、別に日本語が難しいのではないんです。そう言っている学生たちでも日常的に正しく使っているわけですから、既に知っている知識のはずです。

日本語が特別に難しいのではなく、日本語が母語だからこそ客観的に見るのが難しいのだと私は考えています。自転車に乗れる人が自転車に乗ったことがない人にどうすれば乗れるようになるか説明するのは難しいでしょう。箸の持ち方、運転の仕方、二足歩行の仕方、など無意識にできることであればあるほど、改めて説明するのが難しいと思います。

 

私の授業の中で扱う文法項目の中で、大学生にとって理解しやすいものがあります。それは「敬語」です。たとえば、誤用(1)で「先生が親切に教えてくれました」ではなく「先生が親切に教えてくださいました」と言うべきなのはなぜかについては多くの学生が答えられます。大学生にとって日本語の敬語は無意識に使えるほど自動化されていないからでしょう。

 

 人間にとって母語は思考する手段であり、記憶する手段であり、他者に意思を伝える手段ですから、人間は常に母語の能力とともに生活しています。ここまで自動化した能力を客観視することは想像以上に難しいでしょう。この人間の認知の限界とも言うべき現象が「日本語母語話者なら誰でも日本語を教えられるわけではない」という事実に気づきにくくさせているのだと思います。

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本コラムは、講師個人の立場で掲載されたものです。
コラムに記載されている意見は、講師個人のものであり、カフェトークを代表する見解ではありません。

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