こんにちは!「エンパワlabo」氣功師の有岐です。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
本日は私の「大きな転換点となった体験」をお話します。
ある日の深い瞑想中、意識が深く潜っていった時、私はフッと、自分の“体”がどこにもない感覚になりました。
体の重みも輪郭も消え、「自分の身体が気がついた時にはなくなった」ような感覚です。
それはいつもの瞑想とは違う、ただ、完全な沈黙の中で思考がない状態がそこにありました。
けれど、消えていったのは「身体」だけではありませんでした。
やがて「私」という感覚すらも、すっと消えていったのです。
しかし不思議なことに、「意識」は明確に、そこに残っていました。
そしてむしろ、それまでの日常の意識よりもはるかに明晰で、深く、確かなものでした。
そのとき、私は全ての源のエネルギーそのものが“私自身”であると感じました。
それは「私という個」が源から生まれた“一部”というよりも、
源そのものが、まるごと“私”だったのです。
同時に、宇宙に存在するすべてのもの――
人も、星も、風も、音も、ただの石ころでさえ――
すべてが分離して存在しているようでいて、実は一つの存在として重なっているとわかりました。
“すべての始まりのエネルギー”そのものが、自分であると感じられたのです。
それは、何か大きなものの“ほんの一部”としてではなく、
その源そのものが「自分自身」だった、という感覚でした。
つまり、「宇宙の一部として私が存在している」という話ではなくて、
宇宙のすべてが、そのまま“私”だった、という感覚です。
そして同時にそれは、全ての人間や動植物、鉱物、家のテーブル、存在するすべてのものが「同じ状態」だとわかったのです。
そして全ては1つの存在として「重なっている」ように感じました。
私たちは普段、「私」と「世界」は別であり、
自分は社会の中のひとつの存在にすぎないと思い込んでいます。
でもその時は、すべての存在が重なり合い、分離せず、ひとつとして存在していることが、言葉ではなく体感で「わかった」のです。
そこには、愛・怖れ・損得・比較・・定義して意味づけする「要素」は無く
ただ、エネルギーが情報として「ある」だけという感覚でした。
すべてが、完璧な一体性の中に、静かに在るだけでした。
そしてこの体験は、現実に戻ってきたあと、私の心の「認識の目」が根本からさりげなく、そして微細に静かに変わっていました。
1つは、存在する全てのものは「無限の源のエネルギーそのものである」ということ。
私達は、この物質世界に影響を及ぼす力は自己の中にはなく、宗教などの “神”や“宇宙”や“高次の存在”、つまり外側に奇跡を起こす存在がいると信じ、それらに救いを委ねることがあります。
けれど、それでも本当は心は何かが本当には満たされない。
現実に変化を起こす力なんて、普通の人の中にはないのでしょうか?
真実はその反対です。
実は、私達人間の「意思」こそが最も力があり、現実に影響を及ぼす可能性があるのです。
自己の潜在能力は、外に依存する必要はなく、自分の中にある。
その潜在能力を開花する方法は、ただ一つだけ。
それは、「自分」が人生にコミットする体験をする覚悟を決めて、人生をかけて結果に執着せず実践していく、それだけなんです。
その道を歩き始めると、「お試し」は日常に些細に訪れます。それを直感的にキャッチして体験していく中で「わかる=覚」が現れます。
「覚」は知識を増やすことではありません。
学ぶことは重要ですが、「覚」は知識の外にある体験に基づいた“気づき” です。
もう1つは、それまで私を苦しめていた感情や人間関係、
他者からの評価、社会の枠組みの中で感じていた不安や焦り。
それらはすべて、「自分」という“分離された存在”を前提とする認識から生まれていたものだったと、気づいたのです。
他者との関係、社会の見方、そして自分自身の悩みや苦しみの扱い方――
すべてが180度、静かにシフトしました。
苦しみとは「出来事」そのものではなく、それをどう認識するかという自分の“内側の構造”によって生まれていたということ。
そして、その構造に気づいた瞬間、それはまるで、認識の奥にあった執着のエネルギーが、「実は他者と同じ根源のエネルギーそのものであった」と感じた事で、すっと溶けて消えたように感じたのです。
それは、「自分と他者」「内と外」「成功と失敗」といった二元の分断が、ただ“認識のフィルター”にすぎなかったことに、頭でなく身体で分かったという感覚でした。
それまでの私は、制限やルールに縛られた“社会という箱”の中で、当たり前のように生きていました。
でも今ならはっきりと言えます。
答えは、その箱の“外”にあったのです。。
つまり、苦しみを変えるには、出来事を変えるのではなく、“認識そのもの”に光をあてていくことが大切だったんです。
なぜなら、本質的な変化とは――
外の何かを信じることではなく、“自分の認識構造”に気づくことから始まるからです。
内側の静けさの中で起きたこの気づきは、
目に見える世界のすべて――人間関係、常識、価値観――の色合いを変えました。
それは何かを「学んだ」というよりも、ただ「わかった」――そんな感覚でした。
そして、私はこの体験を「特別な何か」ではなく、誰の中にもある、本来の感覚だと思っています。
私がこの体験を話すのは、特別な悟りや、非現実的な神秘を語るためではありません。
むしろ、この「深い一体感」や「認識の転換」は、誰の中にも眠っている感覚だと、私は思っているからです。
私たちは普段、自分を限られた存在だと思い込んで生きています。
過去の経験、社会の価値観、他人の言葉――
そうした“外側”によって形作られた認識の中で、「これが自分だ」と信じてしまっているのです。
しかし、認識の構造に気づいたとき、本当の自己とは、制限された人格や記憶ではなく、無限の可能性を内包した“源そのもの”であるということが圧倒的な“実感”としてわかるのです。
この体験を通して私は知ったこと。
それは、外の世界に何かを求め続けても、本質にはたどり着けない。
なぜなら、すべてはすでに、自分の内側にあったからです。
そしてこの可能性は、誰か特別な人にだけ開かれているのではありません。
あなたにも、必ずある。
覚醒とは、どこか遠い場所を目指す旅ではありません。
それは、自分の内側にある真実に、ただ気づいていく過程です。
あなたの中には、まだ目覚めていない力が眠っています。
それは、誰かに与えられるものではなく、
自らの内に深く真摯にに向き合ったとき――
「自然に」目を覚ますものです。
だからこそ、
どれだけ遠くに見える真理も、あなた自身の中から始まるのです。
覚醒とは、「何かを得る」ことではなく、「幻想を手放していく」静かなプロセス。
「エネルギーマスタリー」氣功のレッスンでは、 呼吸と意識を整え、内なる静寂とつながる体験を通じて、
“感じること”と“気づくこと”が一致していく「本当の覚醒のプロセス」が始まります。
「学ぶ」のではなく、「気づく」こと。
「信じる」のではなく、「見抜く」こと。
「 得る」のではなく、「手放す」こと。
最後に・・「覚」とは何か/魂の階梯を登るとはどういうことか?
あなたが今いるステージを客観的に知りたくないですか?
老子の「十牛図(じゅうぎゅうず)」という、修行者の悟りへの道を描いた図を参考にしてみましょう。!
老子の「十牛図」で見る“気づき”のプロセスと現代人の位置
十牛図(禅の悟りの象徴図)におけるプロセスは以下のように進みます:
あなたはどのステージですか?
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牛を探す(尋牛)
「何かがおかしい」「このままでいいのか?」という違和感を感じ始める段階。 -
牛の跡を見つける(見跡)
本や動画、スピリチュアル、瞑想、氣功など何かに触れて、「もしかして…」という予感を得る。 -
牛を見つける(見牛)
自分の中に「真の自己」や「氣づきの片鱗」を感じる。 -
牛を捕らえる(得牛)
実践を通して、エゴと向き合い、内面に向かう力がついてくる。 -
牛を飼いならす(牧牛)
日常生活の中でも、内なる意識とつながり続ける力が育つ。 -
牛に乗って帰る(騎牛帰家)
気負いなく自然体で生きられる。 -
牛もいなくなる(忘牛存人)
「自己」すら忘れ、「ただ在る」自然な状態。 -
人すらいなくなる(人牛倶忘)
主体と客体の分離が消え、宇宙との一体感へ。 -
根源の無に帰る(返本還源)
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世に入って人を助ける(入鄽垂手)
無私で人と関わる「覚者」の生き方。
まとめ:老子的に言えば…
・牛は「道(タオ)」や「本来の自己」の象徴
・飼いならすことは「内なる秩序との調和」
・牛が消えることは「自分という執着からの自由」
・自分が消えることは「タオとの一体化」
「なんとなく生きづらい」「本当の自分って何だろう」
そんな問いを持つあなたは、すでに“旅”を始めています。
本日も最後まで読んで頂き、有難うございました!
今日はいつもと違う私の体験段、いかがでしたでしょうか?
皆様の体験談も聞かせて下さいね!
氣功師の有岐でした
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