こんにちは。
エンパワlabo 氣功師の有岐です。
本日は、こんな「言葉」から書き始めてきたいと思います。
今あなたが体験している現実は、あなたの心の状態の反映です。
自分には苦しみがふさわしい――そう信じていれば、無意識にその現実を再現し続けます。
多くの人は、自分の心に意識を向けることなく、最悪の未来ー不安や恐れーをシミュレーションし、それに支配されてしまいます。
けれど、脳は“想像”と“現実”を区別できません。
否定的な思考を長年繰り返していれば、それが心の「デフォルト」となり、その通りの人生になっていきます。
“真実”と信じ込まされてきた制限の箱の中で生きていませんか?
自然界の美しさが完璧な秩序に従っているように、私たちの現実もエネルギーの法則が作用しています。
「エネルギーが先に動き、現象は後から現れる」――それがこの世界の原則。
観察によって波動は変わります。
エネルギーが変われば、現実も動き出します。
これがシンプルでただ一つの真実です。
人が生み出す全ての波動「心」。
あなたは何を「考え」「思い」、心が反応しているのか?
他者のどんな「行動」や「言葉」、「波動」に強く反応するのか?
さらに、他者のその言葉や行動の元になる「思い」は何か?
そこにこそ、全ての「鍵」があります。
今日はそんな「鍵」を紐解くお話です。
それを知っているだけでは、まだ変化は起きません。
それを使う意志と、実践する意識が必要です。
「実際に使う」ことで、
はじめて現実は変わり始めるのです。
あなたは、知らず知らずのうちに、自分の力を今も封じ込めていませんか?
それとも、自分の可能性を信じる準備ができていますか?
エゴと偏った自己愛の本質的な関係
「自分だけが良ければいい」といった自己愛とは?
前回のブログでは、エゴとは、「自分とはこういう人間だ」とか「自分はこれだけの価値がある」といった、自己のセルフイメージへの執着であるという話でした。
それは本来、私達がこの社会の中でアイデンティティを築き、生き延びるために作り上げた「自分という仮面」でもありました。
エゴと自己愛は、「自分と言う存在に対する執着」という点で共通しているのです。
「偏った自己愛」は、エゴが肥大化した状態
エゴが強くなると、自分を守ることに必死になり、他人を“脅威”や“道具”として見るようになるのです。
あなたが今苦しく感じている社会、まさにそんな人々が大手を振って歩いているように感じていませんか?
「論理性」「合理性」「効率性」が最優先され、それが「正義」という権利を手に入れた結果、目に見える証拠でのみ判断され、評価される社会。
そんな世界の中で誰もが生き残るために「強者」「勝ち組」になりたいと思うのは、自然なことかもしれません。
「自分とはこういう人間だ」「自分はこれだけの価値がある」ーその自己像に執着(我執)こそが、エゴによる防衛反応を引き起こすことになります。
その延長に現れるのが――
「他者より優れていたい」
「自分の利益や承認が最優先」
といった、「偏った自己愛」の姿なのです。
エゴと偏った自己愛には関係性があるのでしょうか?
エゴの本質的な動きとは、「自分はこうであるべきなんだ」というセルフイメージへの執着。
だから、他者の目を気にして、「比較による価値基準」の世界にいます。
その根底になる心理はーー「否定されたくない」。
そんな他者の攻撃から身を守ろうとして、防衛的で固く握りしめた心の状態なのです。
偏った自己愛の本質的動きは、「自己中心的な愛情表現」です。あなたのパートナーは、自分の都合であなたを愛していませんか?
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本物の愛は、支配せず、搾取せず、操作しないということ。
相手を「自由」にし、「補い合い」、「支え合う」ものです。
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偏った自己愛は、他者より自分の利益を最優先して、他者を‟道具化”して、自分のニーズに満たないと‟排除”します。
そこには、「自分の価値を外側に誇張しようとする欲望」がベースとなっています。
でも、その根底にはある心理はーー
「価値がないと思われたくない」。
そうなんです。
実はこんな風に、「エゴが傷つかないように自己像を守ろうとする」中で、
他人を軽視した愛のかたち=偏った自己愛が発動するんです。
でも、今の世の中を生き抜いていくために身に付けてきた、
「こうであるべきだ」という「条件付けの自分」
を守ろうとしていたんだとわかれば、相手を見る視点が変わると思いませんか?
昔は「男は外に出たら7人に敵がいる」と言われていました。
社会は戦うことを前提に作られてきたのです。
昔は玄関の鍵は開けっ放しでも平気だったのに、いつの間にか何重にも鍵をかけて、自己防衛する事が普通になっていますよね。
それくらい私たちは、他者に恐怖を感じています。
本当の「健全な自己愛」ー「できなくても、今のわたしでいい」ー
それを受容するのと同じくらい、「偏った自己愛」と言うものを知る事が大切なんです。
仏教では、「自分への執着(我執)こそが苦しみの源」とされています。
つまりー
本来の「自己への愛」は、それを求めなくても、
エゴや偏った自己愛を弱める事で、むしろ自然と深まるのです。
「自分だけよければいい」という 自己愛の裏にある心のメカニズム
ここで少し、そんな人の心の裏側を見てみましょう。
それは、単なる‟わがまま”‟論破主義者”と言う言葉では終わりません。
その深部には、2つの心の背景があります。
??1つは、「深い「空虚感」や「無価値感」の穴を埋めようとしている。
偏った自己愛を持つ人ほど、内側に自信がありません。
その内側には、しばしば深い「空虚感」や「無価値感」が横たわっています。
そして、無意識のうちにその内なる穴を埋めようとして、
外側の評価や優越感によって安心を得ようとするのです。
だからこそ、他者より優れているように振る舞ったり、注目されることで存在意義を確認しようとする発言や行動、立ち居振る舞いをします。
言葉の端々に、自分の能力、立ち位置を織り込んで相手を牽制する人。
ブランドや車で自分のクオリティーを盛りたい人。
わかりやすい例だと思います。
そして同時に、自分よりも優れて見える人や、自分の価値を脅かす存在を無意識に排除しようとする傾向が現れます。
これは、他人を操作してでも「自分という存在の安定」を保とうとする、心の防衛反応なんです。
これは、前回のブログの「カバードアグレッション」が良い例ではないでしょうか。
?? 2つ目は、 他者に支配されることへの強い恐れ。
「自分の価値は、誰かの言葉や評価によって決まる」と信じている人にとって、
他人は常に自分の立場や存在を脅かす“敵”のように感じられてしまうのです。
だから、少しでも優位に立とうとし、相手の弱さを見下したり、意図的に傷つけたりしてしまうんです。
ここに、支配 vs 被支配という不健全な関係性の構図が生まれます。
職場や家庭、パートナーとの関係では、立場や経済的要素など複雑な要因がからまって、もっと見えにくくなっているかもしれません。
気が付かないうちに、支配する側と支配される側という不健全な関係性が築かれ、
ますます本来のつながりや共感から遠ざかっているのではないでしょうか。
偏った自己愛とは、「自分を大切にしたい」という思いが、極端に自分の保身に偏って、他者を顧みる余裕を失った状態です。
たとえば──
??誰かが困っていても心が動かない。
??自分の利益のためなら、相手を利用することも厭わない。
??他人の喜びより、自分が注目されたり評価されることのほうが大事。
そんな姿は、一見すると「自己主張が強い人」「自分に正直な人」に見えるかもしれません。
でもその内側では、「他人の感情を認識する余白」がないほど、
傷つくことを恐れたー“自我の防衛”でいっぱにいっぱいなのです。
偏った自己愛は、愛のように見える偽りの愛、
ただ「自分を守り抜こうとする必死の反応」──
言い換えれば、“自己保存欲求の暴走”の形なのかもしれません。
だからこそ、私たちは人の見た目の態度や言葉にとらわれずに、
その人の奥にあるもの──孤独、空虚、不安、見捨てられ不安──を感じ取ってみて下さい。
その人自身も気づいていないかもしれない「癒されていない部分」こそが、
偏った自己愛というかたちで、言葉や態度で表に出ているのかもしれません。
でも、あなたにとってここで大事なのは、共感だけで終わらないことです。
共感と同じくらい、大切なこと。
それは、健全な境界線を引くことです。
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「その痛みには共感するけれど、あなたの投影には巻き込まれない」
「あなたの不安を理解するけれど、それによって自分を犠牲にしない」
「あなたを責めないけれど、あなたの責任はあなたに返す」
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そうした静かで確固とした態度の中にこそ、
本当の思いやりと成熟した関係性が育っていきます。
偏った自己愛の裏にあるものを見抜くこと。
そして、その痛みを理解しつつ、自分を見失わずにいられること。
それが、私たち一人ひとりがエゴの罠から解放され、
ほんとうの意味で「愛を生きる」ための、大切な秘訣なのではないでしょうか?
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
氣功師の有岐でした。
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