大学で日本語や日本文化について講義していると、次のような感想が寄せられます。
「自分が自然に使っている日本語にも法則がきちんとあるんだと気づいた」
「日本人なのに日本語について説明できないことが不思議に思った」
「当たり前のことだと思っていたから、疑問に思うことが疑問だった」
「今まで考えたことがなかったけど、日本文化について改めて考えるきっかけになった」
生まれた時から日本語を聞いて育ち、日本語で意思疎通してきた人にとって、日本語は空気のようなものです。また、日本の社会通念や慣習も当たり前すぎて普段の生活の中で意識することもありません。
そのような大多数の日本語・日本文化ネイティブの受講生たちに向かって、
「落とし物を拾ってもらった時に、『すみません』と言うのはなぜですか?」
「青信号は実際は緑色なのに『青』と呼ぶのはなぜですか?」
「瓶のふたを自分で開けたのに『開いた』と言うのはなぜですか?」
などの外国人の疑問をぶつけます。
すると、受講生たちは戸惑って「え、考えたことなかった」となるわけです。
難しい質問をして受講生をいじめているわけではありません。この「戸惑い」こそが学びとなります。
自分が当たり前だと思っていたこと、自然に行ってきた言動にも、必ず理由があり、その理由はすべての人類に当てはまるような絶対的なものではありません。異なる文化的背景を持った人からすれば「なぜ?」と思われるようなことだったりするのですが、それに気づかずにいただけです。でも、気づくべきです。
たまたま自分がそれを当然と思ってやってきたからといって、客観的に見て常に合理的であるとは言えないわけですから、「当たり前のこと」として片づけるわけにはいきません。
特に、地球規模で人々が移動し、交流する社会においては自分の文化を客観的に捉え直すことは重要な社会的スキルだと言えます。自分が当たり前だと思っている価値観や当然だと思っている言動と異なっていても、異なる理由から異なる言動をとる人が社会にはたくさんいます。それを知ることで、社会におけるコミュニケーションを円滑に行えるようになり、社会活動が成立します。そういう意味において、上にあげたような外国人の疑問は、日本語・日本文化ネイティブの私たちに重要な視点を与えてくれます。
もう一つ重要なことは、日本語・日本文化ネイティブは日本社会において優位性を持っているために、自分の価値観を押し通そうとすればそうできてしまうという危険性を知ることです。外から日本に来た人々は日本語や日本文化を学ぼうとしてくれるので、日本語・日本文化が標準であるかのように勘違いしてしまいがちです。
「1年生だから、早く来て準備をして、終わったら後片付けをしてください」
「え?2年生と3年生はしないのに、なぜ1年生だけなんですか?」
学校の部活動などに見られる年功制がわかりやすい例ですが、「以前からこうだったんだから、後から来た人はそれに合わせてください」という論理がまかり通っています。後から来た人がすでにあるルールを受け入れて尊重してくれるので、理由を説明する必要も疑問に思うこともなかったかもしれません。
しかし、部活動においても会社組織においても、今は説明が求められる場面が増えてきました。もっと広く社会一般のルールや文化についても言語化して、誰にでもわかる形で説明することができれば、異なる文化や価値観を持っている人とも協力して、一緒に新たな価値を創造することができます。
大学教育の目的は、社会をより良くするために貢献できる人を育てることだと思っていますが、私の科目もその目的に少しでも近づきたいです。外国人に日本語を教える仕事をしてきた私ができる教育は、言語スキルを身につけさせることだけでなく、同じ社会に暮らす人々がお互いを知り、自分を知るお手伝いをすることです。時に心地よくなくても、ぜひ学んでください。重要なことですから。
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