こんにちは。
エンパワラボ の有岐です。
いかがお過ごしでしょうか?
2025年もあと数か月ですね。
今年から本格的に始まった世界の大きな流れの変化。
ここから数年間は、私たちの目の前に大きな「お試し」が次々にやってきます。
もう心の準備はできていますか?
今の私たちは複雑な世界の中で、善と悪、右と左という2極の選択を見せられています。
人は「言葉」を持ったその時から「2極の世界」の囚人です。
私たちが熱中する、スポーツや恋愛、トレンドや推し・・それら全てのベースは何だと思いますか?
「競争」なんです。
競争の「箱の中」に私たちは閉じ込められているのです。
「いったい、私たちは何のために生きているのでしょうか。」
気づけば、仕事や子育て、日々の課題に追われて、
「こなす」ことだけで一日が終わっていませんか?
そんな時に限って・・・
なぜか話の通じない人とか、わざと挑発してくる人が現れることがあるんですよね。
心が常に“こなすモード”で、内側に静けさがないとき、
私たちは簡単にその挑発に反応してしまうのです。
「私は正しい」と、つい説明したくなってしまう。
それ、わかります。
でも、逆に理不尽な相手ほど、
あなたが反応することで力を得て攻撃を強めてきませんか?
まるで火に油を注ぐように、あなたが反応するほど炎は大きくなって・・・
疲れるのは結局、いつも自身なんです。
ほんまに結局、心も体も消耗しつくしてしまうのは、自分なんですよね。
これって職場でも、学校でも、まぁ、家庭やSNSでも同じです。
理不尽な非難を受けたとき、感情的に反論しようとすればするほど、
状況は悪化し、泥沼化して・・・
ええ方にはいかないんです。
頭ではわかってる・・・でもできない。
そう、それが人やと思います。
人生でこういう時にこそ、生きる智慧が必要になります。
苦しいとき、どう心を保てばよいのか――
そんな大事なこと、残念ながら、今は学校では教えてはくれないんですよね。
むしろ私たちは、
「上下」や「善悪」という2極で判断して、人を裁いて、点数をつける教育の中で育ってきました。
「裁く世界」
学校では成績で、会社では業績で「私」が数値化される。
まるでリアルゲームです。
そこは「理不尽」とか「葛藤」という、
人の心が抱える「痛み」が 無視された世界やと思うんです。
「人はパンだけで生きるのではない」
――『マタイによる福音書』4章4節
これ、有名な言葉ですよね。
ここでの「パン」は、物質的な糧とか生活の安定を象徴しているんです。
つまり、人間は「物」だけでは生きられない生き物やということです。
人が生きる為に、つまり「心」が生き続ける為に必要なもの、それは
―誰かを愛し愛されること
―ただ、「そうでありますように」と祈ること
―真理と智慧
それらが「物質」ではなくて、生きる為に必要な「目に見えないエネルギー」
「心の糧、滋養」やと思うんです。
家族や恋人、ペットから感じる日常の小さな「愛情」が明日を生きる力になり、
大切な人が病気になったり困った時、人はやっぱり神に「お守りください」と祈ります。
論理ではない何かに助けを求めるんです。
私たちの心は「成功」という“物質”では芯まで満たすことはできないのを知っています。
日常の小さな「幸せ」こそが、心が生き続ける事が出来るエネルギーだとわかっているんです。
私は、人は食べ物の栄養素だけで生きているとは思えません。
植物が持つ「エネルギー」を頂いているというのが本当なんじゃないかと思います。
サプリや健康食品も、もちろん素晴らしいんですが、
近しい人、または動物や植物に対して自分が出す「愛」や「感謝」のエネルギー、それが相手に届いて循環し、今度は自分が受け取ること。
その「喜び」こそが、
これが、必要な「生きる糧」やなぁ・・と思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?
もう1つ、お話をさせて下さい。
ブッタは苦行によって悟りを得ようと6年間、極限まで苦行をしていました。
そんな時、村の娘スジャータが倒れた彼を見つけて、慈しみの心から乳粥を差し出したんです。
そして、ブッダはその乳粥を静かに受け取って、食べた。
その後、悟りを開きました。
そんな話があります。
その話を聞いて、他の修行者たちは
「欲に負けたのに、悟ったのか?」そう思ったかもしれません。
あなたはどう思いますか?
ここで大切なのは、それは 「物質としての乳粥」ではなかった、ということ。
それは、「慈しみの心」が差し出されたものだったのです。
私はそう思うんです。
ブッタは「欲望を断てば悟れる」という思い込み、
それが自分を苦しめていたことに気づいたのです。
魔境にとらわれていた「執着」に気づいたんだと思います。
そして、「苦しみ」そのものを受け入れた。
その悟りを導いたのが、幼い少女の「純粋な慈しみの心」やったと感じるんです。
私たちはみな、安心して受け入れられる場所を探しています。
なぜなら、それが生命の根源的な願いだからです。
恋愛も、家庭も、友情も、コミュニティも、
宗教でさえも、
結局は「心の平安」を求めているんです。
けれど、今の社会ではまるで
「頭の上に点数が表示されるゲーム」のように、
「お前はまだ不十分だ」とささやきます。
私たちはその声に追われながら、
心の砂漠に一滴の水を求めて手を伸ばす――
それが、今の私たちなのかもしれません。
✨✨✨
さて、今日の話は
「魔境」について。
老子の言葉に、
「学を絶てば憂いなし」そんな1文があります。
ここでいう「学」とは、単なる「知識や教養」のことではありません。
それは、善悪・損得・上下といった“分別知”――
つまり、世俗的な比較や評価の「物差し」のことです。
そして、これこそが「魔境」と深く関係しているんです。
私たちは、生きづらさや心の痛みを感じて、
自分を見つめ直そうとします。
自分が抱えている苦しみを探ろうと旅を始めます。
でも、その「見つめ方」が頭の中の分析に偏ると、
比較・分析・判断・・・
そんな風に「観る」という事に囚われて 、
「言葉」や「理屈」の世界――
「思考の枠」に縛られてしまうんです。
それが「魔境」です。
「分析して理解しよう」とする心が深くなりすぎると、
その知性が“自我の最後の砦”となって、
「知る」ことがかえって“とらわれ”へと変わってしまうのです。
こうした自己分析や比較は一見、洞察のように見えますが、
実際には
「とらわれを精密化している」だけなのです。
知識や技、学びが深まると、心がこれまで味わったことのない境地や理解に触れます。
それを「特別な力」と間違えて捉える事があります。
そして内観が進むと、 自己分析をして
「自分にはこういう劣等感がある」
「心の奥底に、孤独や見放しの傷がある。」
また、人を見ては
「鏡」のあの人の中には、こういうものがある、だから・・・・
これが、前に書いた、「観る」という事に囚われて 、
「言葉」や「理屈」の世界――
「思考の枠」に縛られた状態です。
ラベルを貼りすぎると、かえって現実をありのままに見る力が鈍ります。
それが「魔境にとらわれている状態」なんです。
仏教ではこれを「見取我(けんしゅが)」や「慢」とも呼び、
智慧でなく、「思考の枠」にとらわれた状態 と解説されます。
でも
たとえそれにとらわれていたとしても、そこは
「修行がここまで進んできた証」
でもあるとも言えるんじゃないかと思います。??
とらわれに落ちることもまた道の一部。私たちは「言葉」から逃げる事は出来ないんです。
それなら、「思考の枠にとらわれたな」と気づく。
この繰り返しでいいんじゃないでしょうか。
だから老子は言ったと思うんです――
「学を絶てば憂いなし」
頭でこね回す思考や、他と比べて自分を測る心を手放す。
つまり―
“頭で生きることをやめれば、心は自然と静まるんやで~” ??
と言っているわけです。
そして、冒頭で出てきた
「人はパンだけで生きるのではない」
この言葉には続きがあります。
それは、
「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」
つまり――
人は真理によってこそ、生きるということ。
真理とは何か?
今という時代の中で、 私たちは「生きる苦しみ」を感じています。
そんな中でどうやって生きていったらいいのでしょうか?
初めは、暗闇の中で光を求めて
光とは何かを学び、「理解」してもつかめず、
それを手放したその瞬間――
自分の中がすでに光で満たされていたことに気づく。
「魔境」とは、排除すべき闇ではなく、
自我の最後の砦の扉なんです。
私が言う「魂の成熟」という言葉は、地図のようなものだと思ってください。
魂の設計図は「地図」。
そして、人間は「旅人」です。
地図はたしかに方向を示してくれるけれど、実際の旅路は人によって違います。
実際にその道を歩く私たち人間は、その地図の途中で迷い、つまづき、時には後戻りもする。
そこにこそ、理性と感情と身体を持つ、私たち人間が葛藤する、「リアル」があるのだと思うんです。
同じ地図を持っていても、
ある人は晴れた日を歩いているように順調かもしれない。
別の人は雨の中で足元がぬかるみ、思うように進めないかもしれない。
嵐に立ちすくんで一歩も動けない人だっています。
だからこそ、「魂の成熟」というテーマは、実際の人間の行動や感情、つまずきや迷いを抜きにして、やっぱり語る事ができないと思うんです。
「思考の枠の囚われ」の外に出たいですよね。
その鍵は「丹田」にあります。
それは、
下肚(したばら)にある「下丹田(力)」、正中線中心にある「中丹田(魂)」、そして額にある「上丹田(あの世につながる精神)」。
これら3点は繋がっています。
お互いを監視し合っています。
「真実を見極める眼」は、まずは「胆力」。
そして不可欠なのが、「心を一点に止める力」。
この両方が整うと、運と縁は自然に集まってくるんですよ。
本日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
氣功師の有岐でした。
人間形成の場「エンパワlabo」
まずは「チャクラの開眼」で氣を」体験してみて下さいね。
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