日本語・韓国語講師の Hayoung_Eiko です ^ ^
あるとき、ふとした一言が気になって、
何度も頭の中で繰り返してしまうことがありました。
その場では何もなかったはずなのに、
あとから少しずつ意味を足してしまうような、そんな感覚で。
「もしかして、あれって…」
そう思い始めたとき、
どこまでが事実で、どこからが自分の解釈なのか、
少しずつわからなくなっていきます。
日本語には、そういう状態をまとめて、
「自意識過剰」という言葉があります。
便利で、わかりやすい言葉です。
でも、その中に含まれているものは、
本当にひとつだけなのでしょうか。
韓国語には、「自意識過剰」を
そのまま漢字で読んだ言葉(자의식 과잉)が、
ぴったり重なる形では、
あまり使われていないように感じます。
むしろ、ひとつの言葉でまとめるというより、
少しずつ言い換えながら表現されることの方が多いのかもしれません。
そんな言い方に、よく出会います。
たとえば
「너무 신경 쓰는 거 아니야」
気にしすぎていない?
「혼자만의 착각 아닐까」
それ、自分だけの思い込みじゃない?
「괜히 의미를 부여한 걸 수도 있어」
わざわざ意味を持たせているのかもしれないよ
同じような場面でも、
少しずつ違う角度から言葉が選ばれているように見えます。
ひとつの言葉でまとめるのではなく、
その中にある動きを、ほどくように。
悩んでいたある日、
ある人から、こんな言葉をもらいました。
「혼자 너무 안 좋은 생각만 하지 마셔요.
세상은 나에게 정말 관심이 없어요.」
(一人で、悪い方にばかり考えすぎないでください。
世の中は、思っているほど
自分のことを気にしていないものですよ。)
思いもしない言葉でしたが、
不思議と、どこか納得してしまったのを覚えています。
考えてみると、
「自意識過剰」と呼んでいたものは、
気にしすぎること。
意味を足してしまうこと。
そして、少しだけ不安になること。
そうしたいくつかの動きが、
重なっていたのかもしれません。
ひとことで済ませてしまうと、
それ以上、触れなくてもいい気がしてしまうことがあります。
でも、少しだけ分けてみると、
その中にあったものが、
思っていたよりやわらかく見えてくることもあります。
あのときの私は、
本当に誰かの視線を見ていたのか。
それとも、自分の中にあるものを見ていただけだったのか。
今もときどき、同じように立ち止まることがあります。
ただ、そのたびに、
ひとことで片付ける前に、
少しだけ、ほどいてみようと思うようになりました。
その気持ちは、
本当にひとつの言葉で、片付けてしまってよかったのでしょうか。
あのときの私は、何を見ていたのか。
まだ、うまく言葉にできないままです。
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