夏の終わりは、暑さや冷房による疲れが重なり、「なんとなく頭がすっきりしない」「気持ちの切り替えがうまくいかない」と感じることもあります。
そんなとき、ふと好きな香りを嗅いだ瞬間に、気持ちがほっとしたり、懐かしい記憶がよみがえったりした経験はありませんか?
実は「香り」は、私たちの五感の中でも、感情や記憶との結びつきがとても強い感覚です。
私は精油の香りも好きですが、お香も大好きで、以前、御家流の香道のお稽古に通っていたことがあります。
香道では、香りを単に「嗅ぐ」とは言わず、「香りを聞く」と表現します。
静かに香りと向き合い、その香りから何を感じるのかに意識を向ける。
「源氏香」に代表される組香の遊びも、室町時代から伝わる香りの記憶を辿るゲームで、とても趣きのある素晴らしいひと時を楽しめます。
「香りを聞く」という行為そのものが、とても豊かな脳への刺激になるのだと思います。
香りの成分が鼻に入ると、鼻の奥にある嗅上皮で受け取られ、電気的な信号に変換されます。
その信号は嗅神経から嗅球へ送られ、さらに脳のさまざまな領域へ伝わっていきます。
私のメディカルアロマの講座でも、
嗅上皮
↓
嗅神経
↓
嗅球
↓
大脳辺縁系
という流れを学びます。
大脳辺縁系には、感情と深く関わる扁桃体や、記憶に関わる海馬と密接につながる領域があります。
嗅覚は、こうした「感情」や「記憶」に関係する脳のネットワークとの結びつきが強いことが知られています。
ですから、ある香りを嗅いだだけで、「子どもの頃の家を思い出した」「昔行った旅先の景色が急によみがえった」「なぜかわからないけれど安心した」ということが起こるのです。
香りによって昔の記憶が突然よみがえる現象は、とても興味深いものです。
例えば、白檀の香りからお寺や和室を思い出したり、柑橘の香りから夏の風景を思い出したり。
香りによって呼び起こされる記憶は、単なる「出来事の記憶」だけではなく、そのときの気持ちまで一緒によみがえりやすいという特徴があります。
研究でも、香りによって呼び起こされた自伝的な記憶は、感情を伴いやすいことが報告されています。
香りが「心に残る」のは、決して気のせいだけではないのですね。
では、日常生活ではどのように香りを取り入れればよいでしょうか。
難しいことをする必要はありません。
例えば、仕事が終わっても頭の中が仕事モードのまま、という日は、アロマストーンやティッシュに好きな精油を1滴。
香りを感じながら、ゆっくり呼吸してみます。
大切なのは、「この精油を使えば必ずこうなる」と考えることではありません。
自分が心地よいと感じる香りを選び、意識をいったん仕事やスマートフォンから香りへ向けること。
それだけでも、オンとオフを切り替える小さな習慣になります。
アロマセラピーについては、不安感やストレスなどへの有用性を示す研究がある一方、研究の質にはばらつきがあり、効果を一律に断定できるものではありません。
だからこそ私は、「治すための香り」というよりも、まずは「自分の状態に気づき、整える時間をつくる香り」として取り入れることをおすすめしています。
精油の香りを楽しむアロマセラピーと、お香を焚いて香りを味わうことは、同じ「嗅覚」を使いますが、その体験は少し異なります。
お香には、
香炉を準備する
火をつける
静かに立ちのぼる香りを待つ
香りに意識を向ける
という一連の時間があります。
香道でいう「聞香」のように、香りに意識を集中する時間そのものにも大きな魅力があります。
忙しい日常の中で、数分間だけでも一つの香りに集中する。
これは香りを楽しむだけではなく、自分の感覚を今この瞬間へ戻す、とても贅沢な時間だと私は感じています。
ただ、閉め切った部屋で大量のお香を長時間焚くことはおすすめできません。
お香を楽しむときは、
・少量を楽しむ
・適度に換気する
・煙を直接吸い込み続けない
・呼吸器に不調があるときは無理に焚かない
ということも意識したいですね。
香りの文化としてのお香の素晴らしさを楽しみながら、現代の生活環境に合わせて上手につき合うことが大切です。
アロマセラピーでは、精油の成分や作用に目が向きがちです。
もちろん、それらを理解することは大切です。
しかし、「この精油はリラックスによいから、私はこの香りを好きにならなければ」と考える必要はありません。
香りと記憶や感情との関係には、その人自身の経験も大きく関わります。
一般的に心地よいとされる香りでも、ある人にとっては苦手な記憶と結びついているかもしれません。
反対に、自分にとって大切な思い出とつながった香りなら、ほんの少し香っただけで安心することもあります。
「効能」だけで香りを選ぶのではなく、「今の私は、この香りを心地よいと感じるかな?」と、自分の感覚に聞いてみてください。
それもアロマセラピーの大切な楽しみ方です。
■ 精油の香りを安全に楽しむために
精油は植物の芳香成分が高濃度に凝縮されたものです。
香りを楽しむ場合も、「天然だから必ず安全」というものではありません。
妊娠中・授乳中の方、乳幼児、高齢の方、てんかん・高血圧・肝臓や腎臓の疾患など持病のある方は、精油によって使用を避けた方がよい場合があります。
特に妊娠中・授乳中や乳幼児への使用は、精油ごとの禁忌を必ず確認してください。講座資料でも、妊娠・授乳期、乳幼児、既往歴のある方については特に慎重な使用を推奨しています。
また、
・精油を飲まない
・原液を直接肌につけない
・長時間、強い香りを嗅ぎ続けない
・使用中に頭痛、吐き気、息苦しさなどの不快感があれば中止する
ことも大切です。
治療中の病気がある方や体調に不安がある方は、主治医に相談したうえで楽しんでください。
香りを嗅ぐ。
たったそれだけのことですが、その情報は脳の感情や記憶に関わるネットワークと深く結びついています。
精油の香りも、お香の香りも、私たちが昔から香りに惹かれてきた理由を考えると、とても奥深いものがあります。
朝の気持ちを切り替える香り。
仕事に集中するときの香り。
一日の終わりにほっとする香り。
そして、昔の大切な記憶を連れてきてくれる香り。
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