1895年に、日本は台湾を統治し始めた。台湾は日本の最初の植民地として、各方面の新しい政策が実施された。まず、台湾人をいち早く管理できるために、日本総督府が成立された翌日、学務部を設立した。その時の学務部長伊澤修二氏は、「台湾の教育は、まず新しいの人民を早く日本語を話せるようにさせるべきだ。」と述べた。そのため、種類の学校を設立し、日本語教育をした。その三種類の学校は、日本人(内地人)向けの小学校、人向けの公学校、そして先住民向けの番人公學校がある。
日本が台湾を統治する50年間、言語政策では三つの階段が見られる。1898年から、6年制の公学校で日本語を教え始めた。しかし、この頃の日本語はただ漢文以外の一つの第二言語に過ぎない科目であった。その前、台湾にはという伝統的な中国式の学校があり、そこではいつも台湾の閩南語で教えられていた。そして当時、台湾人が使っている台湾の閩南語は、すでに日本政府に「台湾語」と呼ばれていた。ちなみに、統治しやすくするために、総督府は台湾語の調査をし、《日台大辞典》を出版した。
- 第一段階:台湾語で漢文を教え、日本語は個別で教える
- 第二段階:台湾語と日本語で一緒に日本語を教え、漢文の文言文は以前と同様、台湾語で教える。
- 第三段階:全日本語教育、台語は禁止され,漢文の文言文も日本語で教える。
日本政府に派遣された軍隊が台湾に上陸した時、台湾の先住民族から激しく反発されたので、漢人より先住民族に対して更なる計画的な日本語教育を行った。そのため、先住民が日本語を話せる比率は高い。一方、学校の日本語教育が進んでいたけれど、それは教室のみの言語であった、大部分の台湾人は日本語が話せるが、日常生活では殆ど台湾語(台湾閩南語)で話していた。1937年、戦争の関係で、台湾は日本内地の延長とされ、学校の漢文科を廃止する同時に、日本語を全面的に普及した。しかし当時、台湾人で日本語ができる人は僅か51%、だが、1944年という日本敗戦のわずか前、台湾人全員の71%に達した。
その50年間、台湾の社会は巨大な進歩を遂げた。日本の統治を通して、最新の西洋の知識、技術、風潮などが輸入され、急速に台湾は文化開化の社会になった。その原因で、台湾閩南語にある近代以降に生まれた物事の名前や表現は、殆ど日本語とは同じである。それらの語彙は三つの種類がある。(1)台湾語で発音する語彙、例:便當(piān-tong)弁当;(2)日本語のまま発音する語彙、例:壽司(sú-sih)寿司;(3)日本語を経由して伝わった外来語、例:甜不辣/天婦羅(thiân-pú-lah)天ぷら。そして、特に注意して欲しいのは、現在では、今以上の三つの種類の言葉は台湾華語で発音することが多いです。
4.1945年後台湾の国家言語政策
1945年中国の国民党政権は台湾を占領し、脱日本化を進めるためにために、北京語を基づいた国語を普及させ始めた。当初は台湾閩南語などの国語以外の「方言」を土台として国語が普及されたが、次第に方言に対して抑圧的な政策が実施されるようになった。学校はその政策を推進する重要な場であり、もし学校で台湾閩南語を話したら、罰金を払うことだけでなく、侮辱的な処罰をうけることもあった。そのせいで、台湾閩南語やそれを話せる人は差別され、時間を経つに連れて、徐々に台湾閩南語は下品なイメージに変わった。
当時、確かに台湾の「国語」というのは北京語を基づいた言語ではあったが、国民党政府の要員は殆どが中国の南方出身だったので、実は中国の江蘇、浙江、廣東などの人が多かった。よって、実は本場の北京語とは少し違っていた。その時期、台湾の公用語は第二回の変化を経過した。その上、台湾国民党と中国共産党は対抗していたので、両側の中国語も徐々に違ってき、話す表現だけではなく、文字の書き方も違ってきた。
日本政府と国民党政府の国語政策の目的はほぼ同じだったが、効果と影響は違った。1945年まで、半分以上の台湾人は日本語が話せるようになったが、生活の場は主に台湾閩南語で話していた。一方、国民党の政策はより酷かったので、台湾閩南語が話せる人はのちに減少していった。
5.1972年後の台湾に対する日本文化の影響
1972年、日本は台湾の中華民国との国交を断絶し、そのため、日本の文化は海賊版のドラマや音楽によってもう一度台湾の社会で流行り、今でもその影響続いている。よって、1945年後に生まれた台湾人たちは、日本の教育を受けたことがなかったけれど、同じぐらい日本文化に恵まれていた。
現代中国の語彙は、もともと日本語から輸入された言葉がたくさんある。どうしてかというと、明治維新以降、その時の中国も日本と同じように文明開化すべきだと思う志士たちは日本の近代化に憧れていたからだ。よって、現代中国語(中国北京語や台湾華語)の語彙と日本語は非常に似っている。そして1945年後、国民党政府の国語運動を通して、台湾の公用語は華語に変わった。ですから、1972年後、日本語の語彙は、台湾華語で発音され、て使う場合が多くなった。
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