覚醒は“能力”や“奇跡”「特別な人だけが得る、特別な状態」?

Yuki.Kyoto

 

現代のスピリチュアルや自己啓発の世界では、「覚醒」という言葉がよく登場します。
動画やSNSでは「覚醒したら世界がこう見える」「第三の目が開いた」といった刺激的な見出しが並び、そこには神秘的な映像や、奇跡のような体験談が添えられます。

こうした情報は、私たちの好奇心をくすぐります。
「私もそんな特別な感覚を得られたら、今の悩みや迷いから抜け出せるかもしれない」
──そんな期待を持つのは、ごく自然なことです。


けれど、ここにひとつ落とし穴があります。
それは──覚醒を「特別な人だけが得る、特別な状態」と思い込んでしまうことです。

しかし、あまりに「特別な力」「超常的な出来事」というイメージだけが独り歩きしてしまうと、本来の覚醒からはむしろ遠ざかってしまうことがあります。
 

本当の覚醒は、超常的な力を得ることではなく、“幻想や錯覚から目覚めること” です。
 

覚醒には、大きく分けて二つの側面があります。
ひとつは「意識の変容」。もうひとつは「魂の成熟」。
 

魂の成熟については後に触れるとして、今回は「意識」に焦点を当てたいと思います。

  
           
 

 

「意識」という側面から見る覚醒

 

私が言う“意識”とは、日常的に働いている思考や記憶のことではありません。
それはもっと深い層にある、悟りをほんの一瞬だけ垣間見るような体験、または意識が解き放たれたときに訪れる特別な瞬間のことです。

この領域は、座禅や氣功、深い瞑想などを通じて、自然に呼吸が深まり、回数が減ってくると、ふいに姿を現します。
そして、身体の集中力が極限まで高まって、同時に肉体の機能は穏やかに低下していきます。

身体の動きは完全に静まり、心拍や代謝も低下していく。

 

すると肉体の制御を離れた意識は、別次元のあれこれを自覚し始めます。
まるで“死”の入り口に近づくような・・・生命活動そのものが“静けさ”の中に沈み込んでいくような状態です。

 


このような深い状態になると、私たちは気づきます。

意識は本来、肉体に縛られているものではない──ということを。

 

 

呼吸も鼓動も、まるで遠くで起こっているかのように感じられ、肉体と意識との距離が広がるのです。
なぜこのとき、意識が開放されるのか。
それは、私たちの意識が本来、肉体そのものに固定されているわけではないからです。

日常では、五感や脳の働きを通して世界を認識しているため、意識はあたかも肉体の中に“閉じ込められている”ように感じられます。

でも、肉体意識が静まり、力を失うとき、奥に隠れていた“本来の意識”がゆっくりと表層へ浮かび上がってくるのです。
 

 

それは臨死体験にも似ています。
事故や病気で肉体の生命活動が限界まで低下したとき、人は肉体を離れたような感覚を持つことがあります。
 

意識は突然に研ぎ澄まされ、視界は広がり、限りない透明感を帯びて鮮明になり、そして、時間の感覚がなくなる。

世界が一瞬で輝きを増して、思考がなくなり、すべてが意味を持って繋がっていることが直観としてわかる。

ある人は光に包まれ、ある人は圧倒的な安心感に包まれ、ある人は“神”や“宇宙”としか表現できない存在を感じ取ることがあります。

 

そこには、ただ静かな「あるがまま」が広がり、“ただわかっている”という感覚になります。

 

 

こうした体験は、特別な宗教とか信念を持たない人にも起こり得ます。
それだけ、意識というものは肉体と完全に同一ではなくて、条件が整えば「誰の身にも現れる性質」を持っているということです。



ただし、こうした意識の開放は、多くの場合、一時的です。
やがて呼吸は日常のリズムに戻り、五感が再び肉体にしっかりと結びつき、意識は「私」という枠に戻っていきます。

 

 

 

求めすぎることの危うさ ― 「魔境」に入らない「導き手」が必要

 

深い瞑想や氣功、あるいは座禅の中で、私たちは時に特別な意識状態に出会います。
世界が透き通るように輝き、自分という枠がほどけ、あらゆる存在と溶け合う感覚──。
 

そのとき、直観は冴えわたり、何もかもが理解できるような確信に満たされます。
これは強烈で、そして抗いがたい魅力を持った体験です。

一度これを味わった人の多くは、「もう一度、あの感覚に戻りたい」と願います。
その衝動はごく自然なものです。

なぜなら、この体験は日常の悩みや葛藤を一時的に忘れさせ、別世界に連れ出してくれるからです。

しかし、仏教はここにひとつの警告を置いています。
それが「魔境(まきょう)」です。

「魔境」とは、修行や瞑想の過程で現れる、心を惑わせる現象や境地のことです。
 

光が見える、音が聞こえる、身体が浮くように感じる、神や仏の姿を見る──そうした現象は、修行の進展とともに現れることがあります。

実際、私もそのような体験をします。
しかし、これらは悟りそのものではなくて、むしろ悟りへの道を妨げる可能性を持った“誘惑”なのです。


魔境は、深い集中や変性意識状態に入ったときに現れることが多い状態です。
こんな事があります。例えば・・・

??幻覚(光が見える、音が聞こえる、神や仏の姿が現れる)
??超常的な感覚(自分が空を飛んでいる、宇宙と一体になる)
??圧倒的な安心感や多幸感
??特別な力を得たと感じる(透視・予知・超人的な感覚)


魔境の怖さは、その魅力に心が捕らわれてしまうことにあります。
一度その甘美さを知ると、「もっと深く」「もっと長く」と求めるようになります。
 

 

やがて、その体験こそが覚醒だと勘違いし、本来進むべき「道」を外れてしまうのです。

 

仏教では、これらの現象を「本物の悟り」ではないと明確に教えています。
その理由を3つ挙げるとー

  1. 執着を生む
    「もう一度あの光を見たい」「あの感覚に戻りたい」となり、修行の本来の目的から外れる。

  2. 慢心を招く
    「自分は特別な存在だ」「悟った」と勘違いし、学びが止まる。

  3. 現実逃避になる
    現実世界の課題や人間関係から目を背け、意識体験に閉じこもる。

 

  
これは現代のスピリチュアルな世界でも同じです。
深い瞑想や変性意識状態によって、壮大な感覚や神秘体験を得たとしても、日常生活の課題が消えるわけではありません。
 

仕事の責任、人間関係の摩擦、健康や経済の問題は、そのままそこにあります。

そして多くの場合、人はこう感じます。
「現実はつまらない」「こんな次元にはいたくない」。
その結果、再び意識体験という別世界に逃げ込もうとするかもしれません。

 

 

「そんな特別な感覚を得られたら、今の悩みや迷いから抜け出せるかもしれない。」

「‟特別な人だけが得る、特別な状態”ーになれば、苦しみが解消されるのかもしれない。」

ーそんな期待があるからです。


そうなると人は現実を生きるよりも、意識の中に作り上げた仮想のフィールドに滞在する時間を増やしていきます。

見える景色は美しく、感覚は甘美ですが、それは真実の自由ではなく、心を閉じ込める鏡の部屋──まさに魔境ならぬ、“魔鏡”です。

スポーツの世界でドーピングを使えば、一時的には記録が伸びます。
しかし、基礎体力や技術の裏付けがなければ、その結果は偽りのものでしょう。

 

 


意識の世界でも同じです。

どれほど特別な意識状態を得ても、その人がこの人生で解消すべき課題やカルマを飛び越えることはできません。

 

私たちは、魂が成長するために必要な学びの題材「カルマ」を持っています。

それが、「魂の設計図」の中に組み込まれていて、それは現実の経験を通して「魂の成熟」によって解消していくものです。

 

 

このプロセスを避け、意識体験ばかりを追い求めれば、魂は成熟しないままということ。
意識状態が終われば、私たちは元の自分に戻り、同じ問題の前に立たされます。

いくら神秘的一瞥体験や至福ワンネス体験をしても、今の状態に不満たらたらでは、それは「覚醒」とは言えないのです。

 

 

               

真の覚醒──魔境を超えて進むには「二つの車輪」が必要です。
それは、「意識の変容」と「魂の成熟」。

この両輪が揃ってのみ、真の覚醒が現れます。

 


「意識の変容」は、言葉では理解できない「あれこれ」がわかります。
でも、それを現実の中に定着させるためには、日常の試練を通して「魂を磨くこと」が不可欠なんです。


人間関係の摩擦、失敗や挫折、喪失や不安──それらは避けるべきものではなく、魂を成熟させるための「研磨材」です。
現実を生き抜く中で培われる「強さや慈悲心」は、どんな意識体験よりも深く、確かな覚醒の土台となるからです。


              

 

魔境を超える道

 

意識体験は、覚醒への入り口であってゴールではありません。
その体験を求めすぎれば、魔境という甘い牢獄に閉じ込められます。
 

しかし、その体験から得た洞察を持って日常を生きるならば、それは確かな道標となります。

  覚醒とは、現実から離れることではなく、現実の只中で自由になることです。
     意識が広がったその先で、地に足をつけ、目の前の一歩を進む。
     この両輪が揃ったとき、初めて「真の覚醒」は訪れるのです。




氣功や瞑想の世界でも、この「レンズ」に気づくきっかけはあります。
深い瞑想の最中、境界が溶けるような感覚、静寂の中で満ちている感覚──それは確かに心を揺さぶる体験です。

けれど、それはあくまで「入り口」
 

有名な禅語で「魔境現ずるとも驚くことなかれ」という教えがあります。

つまり「現れても驚かず、喜ばず、恐れず、ただ放っておく」──ということです。
 

 


真の覚醒は、派手な花火のような瞬間ではなく、もっと静かで、日常の延長線上にあります。
それは、レンズを外し、ただありのままを見はじめる過程なのです。

私のエンパワLaboの氣功「エネルギーマスタリーレッスン」は、この両輪を支える道のレッスンとなります。

氣がわかる、瞑想に入る・・・だけでは真の覚醒には至らないのです。

 

生徒さんたちは、次回の「魂の成熟」をその人その人の「設計図」に沿って、進んでいかれています。

✨詳しい内容はcafeレッスン内容で✨


 

 

神秘的な一瞬の覚醒体験や、全てと一つになるワンネスの感覚、至福に満ちた瞬間だけでは、魂のゲームは進めません。
 

どれだけ意識が深まろうと、どんなに神秘体験を重ねようと、私たちは人間として身体を持ち、この社会の中で生きている限り、「魂の成熟」が不可欠です。
そして、その成熟こそが、人間としてこの世界に生まれてきた最大の意味でもあります。
この世界は、魂が成熟し成長するための体験の舞台であり、魂の成長を促すための「お試し」のようなものなのです。
 

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

次回は後半。

お楽しみに!

氣功師の有岐でした。

 

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The opinions expressed in this column are the author's own and do not reflect the view of Cafetalk.

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