すでに10年前に出版された本で、評判を呼んで文庫化されています。
文化人類学に興味がある人も無い人も、このタイトルに親しみやすさを感じる人も赤面する人も、どんどん読めてしまう一冊です。
日本語が読めるすべての人におすすめ。そして日本語が読めない人々のために、各国語に訳されると楽しいと思います。
「入門書」がつまらないのはなぜか
どの分野でも、例外こそあれ、「入門書」はつまらないことが多いようです。
その理由を考えてみると、「その分野をまんべんなく紹介しなければならない」「概論でなければならない」「筆者の個性を出してはならない」という入門書の「ならない」のせいではないでしょうか。
しかし、入門書だからこそ、その分野の魅力が伝わらなければ意味がないのでは。
だって、次へ行きたくなくなって、入門で終わってしまいますからね。
文化人類学への批判を超えて
文化人類学への批判のひとつとして、欧米の価値観から「けったいな」土着の風習を観察し、分析したという歴史が挙げられるようです。
ここで私自身の個人的なハナシに脱線します。
私は文化人類学の対象が西洋以外であるということはつゆ知らず、フランスでしっかり文化人類学していたような気がします。日本で生まれ育った者にとって、フランスのさまざまな風習はどう見ても「けったい」なんですもの…
(もちろん、フランスで生まれ育った人にとって、日本の風習は同じくらい「けったい」と映るのでしょうが)
それは、結婚式や葬式、埋葬方法(キリスト教カトリックは土葬が基本。キリスト教プロテスタントは砂のようになるまで火を通す)など人生の一大イベントばかりではありません。
たとえば、私がスーパーで買い物をし、買い物袋をとりあえず台所の床に置くとします。すると、フランス人夫が激怒するわけです…「激怒」は彼個人の問題としても、多くのフランス人がそれを不愉快に感じるらしい。しかし、パリ在住の日本人宅に行くと、やっぱり私と同じように食材が入ったスーパーの袋をとりあえず台所の床に置く。この違いはどこから?
フランスでも日本でも、食べ物が大切なものであるという絶対的な価値は変わらないはず。しかし、「どう」大切にするかというところは相対的な次元になるようです。
私が考えたところでは、これは日本人が必ず玄関で靴を脱ぐことと関係があるのではないか。つまり、日本人にとって家の中の床は清潔な(はずの)イメージだが、西洋人にとってはそうではない。それは、実際には玄関で靴を脱ぐのが習慣になっている夫でも変わらない。
また、かつて台所が「土間」だったとき、私たちの先祖は畑で取ってきた泥付きの野菜を、とりあえず土間に置いたのではないか。その記憶は都会の日本人にも残っているのではないか…
などなど。
対象が西洋文化以外だとそれを文化人類学と呼び、西洋文化が含まれると、それを異文化と呼ぶのでしょうか?
どうも私にはよくわかっていない気がします…
みんなが文化人類学を学べば、世界はもっと平和になる、かも
『恋する文化人類学者』は著者が自らの経験と考えを語りながら、背景となるアフリカの歴史や、文化人類学の良書を紹介したものです。
「スズキさん」というひとりの具体的な文化人類学者が、アフリカでのフィールドワーク中にそこに住む女性と出会い、結婚し、日本での共同生活に折り合いをつけていった記録。女性はグリオ(吟遊詩人)の家の出身で、ヨーロッパなどでもツアーを行うアーティストでした。
こんな経験をする人は滅多にいないでしょう。
しかし、経験が稀有なだけではありません。文章が魅力的です。
高校時代に見た映画『イージーライダー』の鮮烈な記憶から、日本の人々と妻との出会いまで、すべてが生き生きとした個人的な言葉で描かれています。何よりも、なぜ著者が文化人類学に惹かれ続けているかがよくわかります。
文化人類学の考え方を小学校から必修にして、みんなが学ぶことにすれば、世界はもう少し平和になるかもしれない。
そんなことを思いました。
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