日英バイリンガル講師の スティーブン 孝之 シャレットです。
今日は、語学学習に限った話ではなく、「学ぶ」ということに対する私の意見です。
学ぶには、大きく「(単に)理解している」段階と「それを使うことができる(自分のものになっている)」段階の2つのステージがあると思っています。例えば、講演会で専門家から何らかの講義を聞いて、その場では、うんうんと理解していたはずなのに、それを人に伝えようとすると、言葉にならない、といった経験をしたことはありませんか?
これは、話を聞いて、わかったつもりにはなっているけど、まだ、ご自身の知識、教養としての血肉になっていない事の現れだと思います。
では、反対に、誰かに自分の知識や教養を伝える、というゴールが無条件にあったとします。
さて、何をしますか?
まずは、自分自身の考えを整理することは言うまでもありません。そして、それをわかりやすく相手に伝える方法を考えなければ、ゴールは達成できません。(かのRichard Feynmanも“If you can’t explain something in simple terms, you don’t understand it.” という言葉を残しています。) 話の構成は論理的か、展開に矛盾はないか、言葉選びは適切か、必要であれば資料を用意する等・・・第二言語であれば、日本語で行うよりも更に沢山のやるべきことに気がつくはずです。そして実際に準備をすることで、単にわかったつもりになっていた事柄が、みるみる内に、ご自身のものになっていく感覚を味わうと同時に、第二言語への見識も深まることは明白だと思います。
つまり、私がお伝えしたいのは、
最高の学び方の一つは、あなたが教える立場になってみることだ、という事です。
私が「スティーブンに教えろ!」という講師と生徒を入れ替えるレッスンを作ったのは、このような意味があったからです。
「や、でも。スティーブンは聞くだけ?」と思った方、どっこい、違いますよ。
私は幸運にもこれまでに、医学、法学、科学、音楽理論・・・など様々な分野の研究者の方々とレッスンを行う機会に恵まれてきました。そして常に、彼らとのディスカッションは、講師と生徒の関係性であるのか?という疑問を抱いてきました。レッスンという言葉も不適当かもしれません。
彼らは、ネイティブのように完璧な発音でないかもしれませんし、時折文法のミスもおかすでしょう。しかし、私は、細かなミスを直すことよりも、第二言語を使って、自分の言葉で伝えたいという志と意欲を持つ方に、私も同じ熱量で向き合い、英語を母国語とする一人の人間として、彼らの仕事 -知的な財産- を世界に向けて発信するマインド(自信)作りの手助けをすることの方が、ずっと大事なことだと考えています。
私は好奇心旺盛なので、沢山の質問を投げかけますし、その度に未知なる知識との邂逅に心を揺さぶられます。
また、専門性の高い討論を実現する為に、必死に彼らの専門領域について勉強します。
(最近は、脳神経の知識が増えました。)
学ぶ(生徒役)側も、それに応える努力が必要なのです。
日英バイリンガル講師
スティーブン 孝之 シャレット
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