日本語学習者から質問されて困ることの代表例として、それ自体に意味がない語の意味を聞かれる場合があります。「という」もその一つです。(1)と(2)の例文を見比べてみてください。
(1)この景色を見ると、日本に来たという感じがします。
(2)この景色を見ると、日本に来た感じがします。
外国人観光客が富士山を見て、あるいは桜並木を見て、はたまた渋谷のスクランブル交差点を見て、「ああ、日本に来たなあ」と実感したことを述べている文ですが、(1)は「感じがします」の前に「という」が介入しており、(2)は「という」がありません。何か意味の違いがあるのでしょうか。
無料外国語学習アプリHiNative(自分の学びたい外国語や文化についてネイティブスピーカーに質問できるアプリ)に同様の質問があり、そこでは(2)のように「という」がない方が少しカジュアルだという回答が寄せられていました。しかし、「という」が入るとカジュアルでないと感じる人も「って」や「っていう」の形にすれば、フォーマルかカジュアルかという文体的な違いはなくなるでしょう。
(3)この景色を見ると、日本に来たって感じがします。
では、「って」「っていう」などのバリエーションも含めた「トイウ」の介入によって、どのような意味の違いが生じるのか、と質問されればどうでしょうか。意味の違いがないとすれば、なぜ「トイウ」を介入させるのか、「トイウ」はなくてもいいのか、と学習者は疑問に思うでしょう。
寺村秀夫という日本語学の研究者が「トイウ」が必ず介入する必要がある場合、逆に介入できない場合、そして、介入してもしなくてもどちらでもいい場合があることを指摘しています。下に例を示しておきます。私自身も「~という感じがする」と「φ感じがする」(「φ」は「無し」の意味)の違いについて研究したことがあります。「感じがする」は「トイウ」が介入してもしなくてもいいのですが、「トイウ」が介入しやすい場合とそうでない場合があり、「トイウ」が介入すると「~は典型的だと感じる」とか「典型的な場面で~と実感した」という意味が強く現れます。
たとえば、「冬が来た」ことを実感する場面として「コンビニでおでんが売られているのを見た時」があるとします。典型的な冬の場面に遭遇して冬が来たことを実感したと言いたいなら、(4a)の文を発しやすいでしょう。(4b)も文法的には間違いではありませんが、なんだか変に冷静な言い方で場面にそぐわないと思います。
(4)あ、もうコンビニでおでんが売られているのか、
a.冬が来たって感じがするね。
b.冬が来た感じがするね。
このテーマについてさらに詳しく知りたい方は以下の参考文献をご参照ください。<参考文献>
寺村秀夫(1992)『寺村秀夫論文集1-日本語文法論』くろしお出版.
小竹直子(2019)「『~という感じがする』の意味・機能―『φ感じがする』との比較から―」
Comments (0)