前回こんなことを書きました。
クラシック音楽の場合、
楽曲は素材、演奏家はお出汁。
なんでこんなこと、と思われるかも知れません。
ただ、一般的に「楽曲の解釈」が何か、曖昧なままに、
納得するための言葉としてつかわれている気もします。
楽曲の解釈とはなにか、ときかれて、
すんなり答えられる人がどれくらいいるでしょうか?
いろんな意見はあると思います。
個人的に最近思うことを書いてみます。
人ごとに、相性というか、直感で「こうだ!」と掴んで
猛進できる作曲家や曲もあります。
この場合は、解釈という言葉は使いたくないです。
本能的にわかる音楽っていうのは確かにあります。
共感とかいうレベルではなくて、その時の自分そのもの、一体、という感覚だと思います。
(冷静に、客観的に、というご意見もあるでしょう。
しかし、弾いている当事者が音楽の面で自分を客観的にみることなんてできるんでしょうか?
当事者の口にする「客観的」は欺瞞ではないかと思っています...)
そういった「自分と一体になれる(気でいる)」楽曲の反対側に
「じっくり向き合う」楽曲がいます。
この場合は多分、楽曲と演奏家が互いに向き合っていると思います。
天性なのか、経験値なのか、
全ての楽曲と本能的に共感できる人がいるならば、本物の才人だと思います。
普通は楽曲に対して好みや嗜好、あるいはその変遷があるものです。
自分は10年前までハイドンへの取り組み方が全くわかりませんでした苦笑。
周りの共演者に聞いてみても「綺麗に弾けばそれでよくない?」ばかり。
要領を得ていないこちらは「え?綺麗に弾くってなぁに?」状態でした。
今はハイドンも楽しく取り組めます。
10年で何が変わったかと言えば、いい演奏とは何か?の基準です。
自分のかつての基準は、正確な音程、ノイズのない音、リズムや音価通りの演奏、などでした。
もちろん、素人目には綺麗な演奏ですが、音楽として不十分なわけです。
今の基準は「語りかけるように、話すように弾けているか」です。
これは、なんとなくのフィーリングのことではなく、具体的な作法があります。
実現するには、楽譜の読み方、楽器の弾き方を見直します。
これが、演奏家のお出汁、個々の演奏家がもっているスタイル、様式です。
指導者が同じならば、基礎部分が共通することも多く、
一緒に取り組む時はスムーズに進む傾向があるでしょう。
よく、偉い先生のところにレッスンを受けに行ったら
「その曲の前にモーツァルトを弾いてみなさい。
(モーツァルトがまともに弾けないなら、その曲はむりだよ)」とかあります。
モーツァルトというのはあくまで例ですが、
バロックや古典の歴史の上にその後の楽曲や楽器の発展もあるわけで、
「お前はちゃんと出汁がとれているか?
お出汁がないなら素材は活かせないぞ〜」と、確認されているわけです。
もっとも、なんでもある程度いける八方出汁とか、
個別の素材にあわせたお出汁とかあるんですよね...
そして、人前で披露しない限り、
お出汁の取り方の工夫には限界があります。
だからそこ、指導者は人前で一晩のリサイタルができるかどうか、
そして自分の解釈で弾けるソナタが何曲あるか、が大事な基準だと
僕は考えています。
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