「学校で英語を勉強しても英語が話せない」
「TOEICで高得点を取れても日常会話もできない」
このように語学教育は、学んだことそのものよりも実際の運用能力で測られることが多く、近年ますますその傾向が強まっています。日本語教育でも、近年、文法や語彙の知識よりも運用能力を重視せよというプレッシャーが強まっていて、認定日本語教育機関では従来のカリキュラムや評価方法の変更を迫られています。
「知識よりも運用」という流れは日本語を学ぶ人たちにとっても歓迎すべきこととして受け止められており、ある意味で語学教育が民主化した結果とも言えます。教育はサービス業で、顧客のニーズに応えられなければ生き残れない。そのような認識が社会的合意となっています。顧客がスキル習得を求めているのだから、スキルを身につけさせるのが教育だ。それだけでいいのでしょうか。
外国語のスキルだけでなく、外国語を学ぶプロセス自体にも価値があります。
学ぶプロセスをすっ飛ばして結果だけ得ようとすれば、「指差し会話帳」になり、「自動翻訳」になり、学習回避に至ります。異なる言語を話す人同士がコミュニケーションすることだけが語学教育の目的なら自動翻訳で十分に代替可能でしょう。しかし、語学を学んでいる人は、学ぶプロセスにも価値があることを経験的に知っています。
語学学習は時間と労力がかかる大変骨の折れる作業です。語学教室では時に恥をかいたりもどかしく思ったりしながら、一歩一歩進む過程を経験します。その経験が力になります。私自身も大学で学んだペルシア語やCafetalkで学んでいるベトナム語はまったくのゼロからのスタートでした。少しずつ単語の数が増え、理解できる文の種類が多くなり、日本語との違いが見えてきます。見えなかったものが見えてきて聞こえなかったことが聞こえるようになります。この経験が次の挑戦の意欲につながります。私はペルシア語もベトナム語も自由に言いたいことが言えるレベルではありませんが、学んだ過程に意義があると思っています。
また、語学学習に成功しているとは言えない私だからこそ日本語を学ぶ人に共感できます。日本語や日本文化に戸惑う人たちの気持ちを理解できます。このような共感性は広く社会に求められる能力で、外国語運用能力よりもはるかに汎用性が高いでしょう。それこそがまさに教養です。
外国語を使って意思を伝えられたり、ビジネス場面で活躍できたりすることはもちろん素晴らしいことで、語学学習の強い動機付けになります。しかし、そこに至るまでには長い道のりがあり、その道を進む過程にも価値があります。豊かな人間性という価値です。語学を学ぶ人は、社会に役立つスキルだけでなく豊かな人間性も同時に身につけていると私は思います。
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