ここからが今日の本題です。
「学んだ教え」や「得た気づき」そのものが、逆に「私の正しさ」「私の成長」へとすり替わってしまう段階があります。
心の作用による「とらわれ」です。
知識や技、学びが深まると、心がこれまで味わったことのない境地や理解に触れます。
それを「特別な力」と思ったり、
内観が進むと、
「自分にはこういう劣等感がある」
「心の奥底に、孤独や見放しの傷がある。」
そして、人を見ては
「鏡」のあの人の中には、こういうものがある、だから・・・・
ラベルを貼りすぎると、かえって現実をありのままに見る力が鈍ります。
それが「魔境にとらわれている状態」です。
仏教ではこれを「見取我(けんしゅが)」や「慢」とも呼び、
智慧でなく、「思考の枠」にとらわれた状態
と解説されます。
それにとらわれていたとしても、そこは
「修行がここまで進んできた証」
でもあるとも言えるんじゃないでしょうか。
とらわれに落ちることもまた道の一部。私たちは「言葉」から逃げる事は出来ない。
それなら、「思考の枠にとらわれたな」と気づく。
この繰り返しでいいんじゃないでしょうか。
英語が堪能な人を見ると、「あんな風に話せたらいいのにな」と思いますよね。
私がまだ学生の頃、こんな経験があるんです。
世界中から集まった学生がひと夏、イギリスのブライトンの大学寮で過ごす機会がありました。
勿論、英語がスラスラ話せる人もいれば、まだほとんど話せない学生もいました。
しばらく一緒に暮らすうちに、人間関係が出来てきました。
そこで気づいたことがあったんです。それは、若かった私にとって、
初めての大きな気づきで、語学よりも留学で得た一番大きな経験でした。
それは、「言葉は、道具である」という事。
「使うもの」だという事です。
まだ英語に慣れていない、ある生徒がいました。
スラスラと話せる生徒がたくさんいる中で、しばらくすると、なぜか彼女の周りに人が自然と寄ってくるようになりました。
私は堪能に話せると友達が出来るんだろうと思っていたので、不思議に思ったわけです。
ペラペラと話せる人ではなく、なぜ彼女なんだろうか?
その違いは何だろうと考えたわけです。
それが、「言葉は、道具である」という事です。
狡猾に話す表面的な言葉ではなく、その人が
「何を話すのか」つまり、「口から何がでているのか」
それが大切だったことが、やっとわかったんです。
??????
国が違えば、それだけの数の「当たり前」の価値観の数があって当然。
誰一人として同じ顔はないなら、それだけの数の「当たり前」があって当然。
「何言ってんの?」と思われるかもしれません。
でもその「当たり前」で、私たちは争っているんです。
「観念」とは、
自分の生い立ちの背景によって、自分が影響で作って来た「ものさし」。
だれもが「私の当たり前」のベースの中で、その「私に正しさ」に、疑問も持たないで生きています。
「だって普通は・・・」って言いません?
それって「誰」にとっての普通ですか?
私たちの中にある「思い込み」に気づかずに、それに動かされて生きているんです。
毎日に忙殺される毎日の中で、私たちは自分というパソコンにどんなアプリケーションが入っているのかに気づく時間もない。
「なんで、こんな忙しくて、くたくたになる毎日を繰り返して、生きる事になっているのか?」
「なぜ」
そんな疑問を持つ時間さえないことに気づいていない。
「思考の枠の囚われ」の外に出る。
それは、
下肚(したばら)にある「下丹田(力)」、正中線中心にある「中丹田(魂)」、そして額にある「上丹田(あの世につながる精神)」。
これら3点は繋がっています。
お互いを監視し合っています。
「真実を見極める眼」は、まずは「胆力」。
そして不可欠なのが、「心を一点に止める力」。
この両方が整うと、運と縁は自然に集まってきます。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
カフェの氣功レッスンは、バージョンアップしています。
呼吸法や瞑想に入る意識になる・・・それは基本です。
目覚めに必要なのは、「自分を理解し、統合し手放すこと」
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